夕方の4時すぎにもなって、ようやく食事にありついた3人は、 もう二度と歩きたくない気分になっていた。 日はすでにだいぶ傾いていたが、まだまだ暑い。 それにこの小国ときたら、どこへ行っても坂ばかり! 坂を歩いて登るのはもういやだった。
さて、ここからどうやってエズに帰ろうか。 ニース行きのバスがエズヴィラージュの前を通っているはずだ。 でも、そのバスって、どこから乗るのだろう?
今日すでにさんざ眺めた地図をまた開いてみると、 高台の道沿いにあることが分かった。 今いるところから歩いて10分くらいの距離だ。
10分という距離は、いつもならノープロブレムな距離である。 でも今日は‥。 また坂道を登ることと考えただけで、うさぎは即座にこのアイデアを打ち消した。 だって、今は夏で、シルバーエイジが一緒で、しかもまた道に迷うかもしれない。 うさぎはタクシーでエズまで帰ることにした。
コートダジュールのタクシーは高い。 やたら高い。 だが今は、そんなことはどうでもよかった。 とにかくホテルに早く帰りたい。 頭の中にはそれしかなかった。
タクシー乗り場は駅の向こう側にあるはずだった。 ところが駅を通りかかると、地下の駐車場にタクシーが一台止まっていた。 ラッキー!! うさぎは運転手に話しかけた。 まだ若いお兄ちゃんだ。
「こんにちは。エズヴィラージュまで帰りたいのですが」
うさぎがそう話しかけると、答えは流暢な英語で返ってきた。
「ごめん。先客がいるんだ。
ほら見てよ、この荷物。これからこれを送っていかなくちゃならないんだ」
それはとても感じのよさそうな若者だった。
「ねえ、それ遠いの? 5分か10分のことなら、
わたしたち、ここであなたの帰りを待っているけれど」
地上の暑いタクシー乗り場で、ドライバーの人柄も分からぬタクシーを待つよりは、
涼しいここで、人柄が良いと分かっているタクシーの運ちゃんを10分待ったほうがいい。
うさぎはそう踏んだのだ。
けれど若者はちょっと迷った末、残念そうにこう言った。
「10分で帰ってくるのは無理だな。片道10分くらいかかるから。
それに、2回行かなくちゃならないんだよ。
最初は荷物だけ。二度目はお客さんを乗せていかなくちゃならないんだ。
ゴメンね。そのエレベータを上ったところにタクシー乗り場があるから、
そこで別のタクシーを拾うといいよ」
うさぎたちは若者に礼を言い、地上にあがることにした。 幸い、タクシー乗り場はすぐに見つかった。 けれども、そこにはタクシーなんて一台も止まっていなかった。
5分、10分‥。 うさぎたちはタクシーが来るのを待った。 南仏の夏は日が長い。空にはまだまだ太陽が輝いている。 しかも、ベンチなんてないから立ちんぼだ。
10数分が経過し、いよいよ不安になってきた。
ふと見れば、タクシーを呼ぶための電話がそこにあるではないか。
フランス語で電話をかけるのは億劫である。
すごーく、ものすごーーーーく億劫である。
でもそんなこと言っている場合だろうか。
「とにかく、今はどうでもタクシーを呼ばなくっちゃ!!」
うさぎは決意し、電話をかけることに決めた。
ところが。 いざ電話をかけようとすると、テレフォンカードがないと使えないことに気づいた。 この電話に小銭を入れる口はない。 テレフォンカードがないことには、この国では電話一本かけられないのだ。 しかも、そのテレフォンカードとやらが一体どこに売っているのか分からない。 駅にある売店のどこかしらには売っているのかもしれないが、 その「どこかしら」とは一体どこなのだ? 下手すりゃ売り切れで、結局手に入らないかもしれない。 しかもそうやって苦労した挙句、待っているのはフランス語で、 更に、タクシーを呼んだところで、必ず来るという保障はなく‥。
ああもう‥。 これではバス停でバスを待つほうが確実なのではないか。 さんざここで時間を無駄にしたが、やはりバス停を探してバスに乗ろう! うさぎたちはそう決め、やおら歩き始めた。
ところが、いくらも歩かないうちに、タクシー発見!!
「すいません! 待って! エズヴィラージュまで帰りたいんです!!」
うさぎは慌ててそのタクシーを呼びとめ、フランス語でまくし立てた。
火事場の馬鹿力というヤツだ。
タクシーの窓がゆっくりと開き、それからゆっくりと、今度はドアが開いた。 見ればドライバーは、えらくハンサムな、まだうら若き紳士。 なんとも上品な物腰で彼は「どうぞ」とうさぎたちを車に招き入れた。 3人は早速車に乗り込んだ。
その車のソファに体をうずめたときの幸福感といったらなかった。 心底「助かった」と思った。
「エズ・ヴィラージュですね?」 と流暢な英語でドライバーは物静かに言った。 「40ユーロでいいですね?」
エッ!!
ホッとしたのもつかの間、うさぎは飛び上がらんばかりに驚いた。 だって40ユーロといったら約6000円だ。 モナコからエズまで、ほんの5キロしかないのに‥!! 後部座席でままりんがこの数字を聞き取り、息を呑むのが聞こえた。
‥でも仕方がない。 うさぎはおとなしく「OK」と答えた。 メーターを使わないようなタクシードライバーに歯向かうのは怖い。 「40ユーロでいいですね?」と言った運ちゃんの言い方は、 物静かだが有無を言わせない響きがあり、 ディスカウントを言い出せないような、一種の凄みを帯びていた。 それにもう車に乗っちゃっているんだし、 これを逃したら、次はないかもしれない。
しょうがない。 6000円だろうがなんだろうが、エズに帰れるだけで御の字だ。 うさぎはそう思うことに決めた。
上品な紳士に思えた運転手の株は、この一件で急落。 とはいえ、ちょっぴりがめついだけで、そんなに悪いヤツではないかもしれない。 うさぎはこのエセ紳士とも仲良くやることに決め、いろいろ話しかけてみることにした。
「何分くらいでエズにつきますか?」
「あ、あれが有名な犬の頭の形をした岩ですね!」
「今日は道路が空いていますねえ」
‥‥。
こっちが何を言っても、ドライバーは無反応だった。 相変わらず上品で物静か。 けれど、業務に必要なこと以外の会話はサービス外だと思っているかのようだった。 うさぎは1人で喋っている自分が馬鹿みたいに思えてきて、黙ることにした。
尤もモナコとエズは目と鼻の先。 気詰まりな時間などろくになく、すぐに村のふもとに到着した。 バス通りで車が止まろうとしたので、うさぎは言った。 「すみません、もっと上まで行ってください。 村の入り口まで」
ドライバーは物静か且つ上品に答えた。
「この先は一方通行なので行かれません、ここで降りてください」
うさぎたちは仕方なく、バス通りで車を降りた。 昨日のタクシーは上まで上がってくれたのだから、一方通行なんてウソだと思ったが、 きっちり40ユーロ支払って降りた。 びた一文チップをつけずに。
タクシーが行ってしまったのを見届けると、ままりんの怒りが爆発した。
「冗談じゃないわ! こんなところで降ろすなんて!!
こんなサービスで40ユーロ?! 馬鹿にしてるわ!」
うさぎも全く、ままりんと同意見だった。 こんなタクシーに引っかかってしまった自分が悔しかった。 けれど、どうしようもなかった。 あそこであのタクシーに出くわさなかったほうが良かったかと考えると、 それも微妙だったから‥。 腹立たしい気分もさることながら、今は何であれ、エズに帰ってこられたのが嬉しかった。