三棟屋博物館からツェンワン駅へと向かう途中の小広い駅前広場で、 うさぎたちは黄色いウィンドブレーカーを着込んだ 「苗圃行動(Sowers Action)」なる募金運動員の女の子に捕まった。
なんでもそれは、中国における基礎教育の促進運動なのだそうだ。
「中国の僻地には学校が足りません。学校建設のために、一口20ドルの募金をお願いします」
と彼女が熱心に言うので、
菜々子ちゃんとうさぎは10ドルづつ出しあい、募金に協力した。
「ありがとうございます」と先方の彼女はこれまた熱心に言い、
お返しに、きれいな絵葉書のセットと、この運動のパンフレットをくれた。
「"募金"という名の思い出作りのための、ささやかな投資ね」とうさぎが言うと、
「"募金ならもうしました"という目印もゲットしたし」と菜々子ちゃん。
彼女は貰ったパンフレットを上着のポケットから半分見えるように入れた。
なるほど、それはうまいやり方だった。
この日曜日、一行はほかの地下鉄の駅前で何度も同じ募金運動に出くわし、
その都度ポケットから半分はみでたパンフレットが効果を奏したというわけだ。
◆◆◆
ツェンワンを起点とする地下鉄は、しばらく地上を走る。 ごく当たり前な電車の車窓から見えるのは、どこか当たり前でない景色だ。 山のてっぺんに高層マンションなんて、大地の揺らぐ日本では考えられない。
地下鉄が文字通り地下に潜ってしまうと、 うさぎは先ほど募金運動のお姉さんからもらった絵葉書をやおら取り出し、 「公文式」と大きく書いてあるそれを、改めて眺めはじめた。 どうやらこの"苗圃行動"運動のスポンサーは、日本でもお馴染みの、 というか"日本の"、公文式のようである。 そういえば駅へと続くショッピングビルの中にも、 公文式のお教室の広告がでかでかと出ていて、 「おお、日本の公文式、中国大陸にも進出しているのね〜!」と驚いたものだった。
いや、よく考えれば驚くにはあたらない。
"公文式"と"中国"という取り合わせは、
"これっきゃない"って感じの絶妙な取り合わせではないか。
勤勉さの行軍、或いは知能的マスゲーム。
勤勉な中国人が公文式という名の鉾を持てば、向かうところ敵なしである。
「公文式のプリントに一斉に取り組む子供らの姿って、
スワトウのハンカチ工場の刺繍女工に通じるものがあるわねえ」
うさぎはそう言いつつ、
「公文式」「マスゲーム」というキーワードを無造作に小さな手帳に書き込んだ。
その傍らでは、菜々子ちゃんが英国製の洒落たノートに
きれいな字で細やかになにやら書き付けていた。
菜々子ちゃんのその様子に目を細めるうさぎ。
旅先でメモを取る同志の存在は、嬉しくてたまらない。
「このノート、伊勢丹の文房具売り場で買ったの」と菜々子ちゃん。
「"旅行に持っていくノートを探しているんですけれど"って店員さんに声をかけたら、
"まあ! お客様も旅先でメモを取られるんですね! わたしもです〜!"ってその店員さんが
ウキウキしながら張り切って選んでくれたの」
「へええ、そこにも旅先にメモを取る同志が一人いたわけだ」とうさぎは笑った。
地下鉄は着々と太子駅(プリンスエドワード駅)へと向かっている。 太子には、うさぎにとって今回の香港旅行の主目的ともいうべき"バードガーデン"がある。 鳥好きのおじさんたちが自慢の鳥を連れて集うという。 それに向け、うさぎは手帳に書きつけてきた広東語のおさらいをはじめた。
「好Q雀仔(ホウキウジョッジャイ)。 影相OK?(インションオーケー?)」
「それどういう意味?」菜々子ちゃんがうさぎの手帳を覗き込みながら尋ねた。
「"いい鳥ですね。写真撮ってもいいですか?"」
菜々子ちゃんは華やかに笑った。
「なるほど〜。まず褒めて、相手が気をよくしたところで本題に入るわけね」
「わたしの"いざというときの広東語"はね、"どれくらいもちますか?"よ」と菜々子ちゃんが言った。
今度はうさぎが笑う番だ。「何それ〜?!」
「今回の香港旅行の使命は、乾物を買って帰ることなの。ホタテの貝柱とか。
でもどれぐらいもつかわからないじゃない?
そこで賞味期限を尋ねるわけよ」
「ははあ、なるほど〜!」
二人で笑い転げている間に、地下鉄は太子駅に到着。 皆は電車を降り、バードガーデンへと向かった。