アラムジワには系列のレストランがいくつかある。 モンキーフォレスト通りの人気レストラン「カフェ・ワヤン」もその一つで、 この店に駆け込めばいつでも冷たい飲物が振舞われ、 ホテルやウブド周辺への足である車を呼んでもらえた。
そのもてなしは、実利以上に、精神的な効用があった。
「アラムジワにお泊りなんですか」と言うときに従業員が見せる嬉しそうな表情、
身内を見るような親しげな目が、何より嬉しい気分、寛いだ気分にさせてくれたのだ。
それは「あなたはここにいていいんだよ」というウブドからのメッセージのように思えた。
この日、朝市からの帰りにここに寄ったのも、元はといえば車を待つためだった。 ウブド近くのプリアタン村で画材を買い、その足でホテルに帰るつもりで カフェワヤンに寄ったのだ。
でも今日もここで大きなお土産を貰うことになった。
なかなか車がこないので、オープンエアが気持ちのよい店内を一巡りしてこようと、
奥の方に入っていったら、まだ朝のうちだったものだから、お客はまだほとんどおらず、
従業員が車座になってお供え物を作っていたのだ。
"チャナン"と呼ばれるお供え物は、これまでウブドの到るところで目にしてきた。 民家の玄関先、レストランのテーブルの上、店の軒先など、 本当にありとあらゆるところでチャナンを見かけた。 あるものは天井からぶらさげられて風に揺れ、陽に晒されてカサカサになってゆく。 またあるものは、花や線香、それに少量の白米などがあしらわれて道の端に置かれ、 犬に踏まれ、鳥につつかれ、風に弄られてバラバラになる。 そうやって知らず知らずのうちに散逸することで、 天の恵みの一部が神に還ったとみなすらしい。
カフェワヤンのスタッフたちは、オープンエアの床に大きな椰子の葉を並べ、 それぞれ思い思いに様々なタイプのチャナンを編んでいた。 椰子の葉を揃えて、同じ場所に切り目を入れている者がいる。 竹を細くナイフで削いでいる者もいる。 これは椰子の葉を継ぎ合わせるとき、ホッチキス代わりに使うのだ。
10数人のスタッフの中に年若い女の子がいたので、尋ねてみると中学生。 今日は学校が休みなので手伝いに来たのだそうだ。 「お手伝い? 偉いわね」と思いながら見たその顔は、 大人の中にあって何の衒いも気負いもなく、ただ当たり前のようで、 そして何より、楽しそうだった。
楽しそうな作業風景――それはバリに来てから何度も見てきたものだった。 特にアラムジワの周辺で。 アラムジワのスタッフたちはいつも、楽しそうに仕事をしていた。 楽しそうにお客と会話し、楽しそうに部屋を案内し、楽しそうにチャナンを飾る。 窓拭きも、床掃除も、ゴミ捨ても。 皆と微笑みを交し合い、会話しながら、手だけは休めることなく動かす彼らを見ていると、 うさぎは自分の中の何かが変わっていくような気がした。
仲間と談笑しながら絵を描く画家たち
仲間と談笑しながら客を待つタクシーの運転手たち
仲間と談笑しながらチャナンを編むスタッフたち
ここの人たちはみなとても働き者。 だけどそれは、これまでうさぎが考えていた「働き者」とは違っていた。 時間に追われる風でもなく、高みを目指す風でもない。 ただ目の前にある仕事を淡々と、楽しみながらこなしてゆく。 飾ってもほんの数時間の後には風に飛ばされて散逸してしまうチャナンを、 談笑しながら淡々と作る。
うさぎにとって、それは一つのカルチャーショックだった。 どうしてこれをしなくてはならないのかとか、もっと楽をする方法はないだろうかとか、 そんなことばかり考えてはしょっちゅう手を止めているうさぎにとって。
人は誰しも、天から、社会から、家庭から、様々な役割を与えられている。 皆一人一人違う役割を。 ああでもない、こうでもないと、ゴタクを並べ、よそ見をしいしい生きるより、 与えられた自分の役割を淡々とこなしてゆくのが、 結局一番良い生き方なのではあるまいか――。 チャナンを作る人々の脇で、うさぎはそう感じていた。