バリで過ごす3日目、
アラムジワの隣りに住む画家たちに会いに行くのはもう、うさぎの日課になっていた。
「わたしもバリ絵画を描きたい。画材はどこで何を買えばいいのかしら?」
とうさぎが訊ねると、彼らはうさぎが持っていったウブド周辺の地図に頭を寄せ合い、
「プリアタン村のこの辺りに画材屋がある。
そこでアクリル絵の具、それに太さの違う筆を2本買っておいで」
と教えてくれたものだ。
「カンバスは?」と尋ねると、
「最初からカンバスに描くのは無理だ。まずスケッチブックで練習するといい」
けれど、画材屋探しはそう簡単ではなかった。 画家でもなければ画材屋の場所なんて、普通の人はそうそう知らない。 日本でもバリでも。 昨日も「プリアタンの画材屋に連れて行って欲しい」とホテルのドライバーに告げたら、 「あい分かった」と地図も見ずに気軽に請合った彼が連れて行ってくれた先は、 画材屋ではなく、画廊だった。
その時は時間がなくて諦めたが、
二度目の今日こそは、ぜひとも画材屋にたどり着きたい。
うさぎはカフェワヤンにやってきた車のドライバーに、熱をこめて説明した。
「わたしが行きたいのは画材屋なの。絵の具と筆を買いたいの。
わたしが行きたいのは、"画材屋"よ。"画廊"ではなくて」
そのドライバーもやはり、画材屋なんてものには行ったことがなかった。 でも幸い、彼は慎重な性格だった。 彼は地図を見ただけで納得せず、 カフェワヤンのスタッフを呼んでは、「画材屋を知ってるか」と訊ねて回った。
何人かに訊ねたのち、ようやく画材屋の場所を詳しく知る者が現れた。 ドライバーは現地語でなにやらやり取りしたのち、 画材屋がどの辺にあるかをすっかりイメージしたようだった。
そんなこんなで今度こそたどりつくことができた念願の画材屋、
それはさほど大きな店ではなかった。
けれど車を待たせて店の中に入ると、揃えるべきものは何から何まで充分揃っていた。
筆だけで何十種類も。
うさぎはまず筆を選ぶことにして、画材屋のお姉さんに尋ねた。
「トラディッショナルスタイルで描きたいのですが、筆はどれを選んだらいいのでしょう」と。
ところが。 お姉さんは知らない、とかぶりを振った。
えっ!!
予期せぬ展開にうさぎは慌てた。
画材屋に訊けば、てっきり適切な道具が揃うものだとばかり思っていたのだ。
さあ大変、うさぎは必死に、
二人の画家たちが使っていた筆は、さあて、どんな筆だったかしら、と思い出そうとした。
たぶん柔らかい水彩筆、たぶん一本はごく細で、もう一本は‥。
ああ、困った、ちゃんと筆の号数を画家たちに訊いてくるんだった。
記憶を掘り起こしつつ、筆の前でああでもないこうでもないとつぶやいていると、
誰かが筆を一本、うさぎに差し出した。
「トラディッショナルスタイルでしたら、これあたりがよいでしょう」
驚いてその人を見ると、それは若い男性だった。
みるからに"画家〜っ!"という雰囲気の。
アラムジワの隣りで絵を描いていた二人の画家は、
ごく常識的な、普通の人々のようないでたちだったが、
こちらの彼はいかにも画家だった。
見るからに生き生きとしたその目が。
黒く縮れた長い髪が。
その髪に巻いた海賊の子分みたいなバンダナが。
うさぎのイメージするところでは、
「画家」というのはどこかエキセントリックでなくてはならない。
そして、今、目の前にいる彼はまさにそういうタイプだった。
「こっちの細筆はアウトラインを描くのにも使えますよ」と彼。 アウトラインを筆で‥? うさぎは、画家たちのカンバスに描かれていた繊細な線を思い出してドキドキした。 あんな線を筆で描く? それは難しそうだ。
そのうさぎの表情を見て取ったのか、隣りの彼は言った。
「それとも、アウトラインはこちらのペンで描きますか?
その方がずっと簡単ですよ」
うさぎはそうすることにした。
こうなったら、せっかくだから他のものを彼に選んでもらおう。
「カンバスはどれが良いでしょう?」とうさぎが訊ねると、
「最初はカンバスより、スケッチブックを使ったほうが良いでしょう」と彼。
彼も二人の画家と同じことを言う。
それでも画家の真似事がしてみたかったうさぎは、カンバスを諦めることなく一つ買ったが、
スケッチブックも買うことにした。
「トラディッショナルスタイルにはどちらが良いでしょうか」
キメの粗いものと細かいものを並べて訊ねると、彼は、「こっち」と、
キメの細かいものの方を指差した。
18色のアクリル絵の具、スケッチブックをうさぎ用とチャア用に2冊、
筆2本に、速乾耐水性の細書きペン、
下書き用の鉛筆、小さな鉛筆けずり、小さめのカンバス、
ちいさな水彩用パレット、ステッドラーの消しゴム。
これだけ買うと、物価の安いバリとはいえ、さすがに3000円を越す出費となった。 でもうさぎは満足。これさえあれば、自分にもバリ絵画が描けるかと思うと。
会計を済ませて店の外に出ると、くだんの彼も買い物を済ませてバイクで帰るところだった。
うさぎは改めて彼に礼を言い、どんな絵を描くのかを訊ねた。
「ニュースタイルです」と彼は言い、バイクにまたがった。
うーん、かっこいい。いかにも「ニューウェーブの画家」という感じ。 存在自体がすでにアートだわ。
その背中を見送りながら、うさぎは思った。