Malaysia  ペナン島

<<<   >>>

【 奥様の失敗 】

ルームサービス

きのう部屋で寝込んでいたとき、「只今在室中」の札を玄関の扉に掛けに行ったら、 向かいの部屋の掃除に入ろうとしていた男性スタッフと目が合った。
「お早うございます、奥様」と彼は折り目正しく言った。 このホテルでは従業員の誰もが挨拶の最ろに必ず"ma'am"(奥様)をつける。はい、奥様、いいえ、奥様‥。 どんな一言も必ず「奥様」付きである。
うさぎは部屋を出て彼に話しかけた。 背後でドアの閉まる気配には一瞬胸騒ぎを感じたが、それを無視してうさぎは言った。
「今日はルームサービスは結構です。病気で一日中寝ているので、邪魔しないでね」
"don't disturb"〔邪魔するな〕とはイヤな言い方だと思ったけれど、仕方がない。他の言い方が思いつかなかったのだ。

「分かりました、奥様」と彼が答えるのを聞いて、もう一度部屋に入ろうとすると、 なんとドアにはカギが掛かっていて開かなかった。
‥そりゃそうだ。オートロックなんだから。
うさぎは動揺した。ひどくバツが悪かった。 この高飛車な"奥様"は旅慣れていらっしゃらないご様子だ、と目の前の彼は内心せせら笑っているに違いない。

けれど、恐る恐るその表情を伺うと、彼はうさぎの失敗を面白がる風でもなく、到って無表情であった。 その、いわゆる「よく訓練された無関心」に、うさぎは感動を覚えた。
彼は、困惑しているうさぎを見て、しごく遠慮がちに言った。
「奥様、鍵を開けて差し上げましょうか」と。
うさぎは、有り難く彼の申し出を受けて部屋に戻った。

今朝、朝食をとりに行って部屋に帰ってくると、早くも部屋にはルームサービスが入っていた。昨日の彼である。
掃除の邪魔をしては悪いので、うさぎたちはロビーに戻り、彼が仕事を終えるのを待つことにした。

30分ほどしてから部屋に帰ってみると、なんとまだ彼は部屋にいた。 ルームサービスが一部屋にこんなに時間を掛けるものだと、うさぎは初めて知って驚いた。

またロビーに引き返すのは面倒だったので、この際、彼の仕事振りを見せてもらうことにした。
「ここであなたの仕事を見ていても構わない?」と尋ねると、彼は快く頷いた。
もはや部屋の掃除は終わり、あとは最後の大仕事ベッドメイキングだけだったが、 その手際の良さを、ネネとチャアが感心して眺めていた。 男性の"ルームメイド"さんとは珍しいけれど、 この仕事は女性よりもむしろ男性向きかもしれない。 だって、ものすごい力仕事だもの。

「終わりました、奥様」彼はすっかり仕事を終えると、そう言って帰っていった。 枕もとに置いたRM4のチップを置いたまま。 うさぎはそれに気付くと、すぐさま彼を追いかけていって渡した。

そのあと廊下を歩いていると、欧米の女性が向こうから歩いてきた。 彼女が「ハロー」と言うと、ネネとチャアもにこやかに「ハロー!」と返した。
「外国じゃ、知らない人にでも挨拶するんだよね!」と、すれ違った後でネネが言った。

ラササヤンでは、挨拶を交わす欧米の習慣が徹底している。 この習慣をスタッフが率先して行っていることがこのホテルの毛並みの良さを思わせ、 にこやかに挨拶を返せるかどうかでお客の方も資質を試されているような気がした。
海外へ出た時の最低限の素養、それは「笑顔」と「英語」である。 英語の方はともかく、子供たちがこの笑顔の試験に合格したのが、うさぎはとても嬉しかった。

<<<   ――   5-1   ――   >>>
TOP    HOME