帰国後一週間ほど経った7月6日のこと。信販会社からうさぎに電話がかかってきた。
「昨日、一昨日に、台湾に行かれましたか?」受話器の奥で若い女性の声が言った。
「は?! ‥いいえ」うさぎは驚いて答えた。何でも、昨晩の夜中に台湾で、うさぎのカードが使われたのだと。
だが10万円近い買い物が一晩に何回もある不審なケースなので、
本当にうさぎ自身がした買い物かどうか、確認の電話が掛かってきたのだ。
台湾でのカード利用をうさぎが否認したので、カード無効化の措置が取られ、既に利用された分は請求されないことになった。
でもうさぎは、どうして今も自分の手元にあるカードが台湾で使われたりできるのかが不思議で尋ねた。
電話の女性は事もなげに答えた。
「ああ、偽造カードです。お客様のカードが偽造されたんです」
「‥ところで、最近海外へ行かれましたか?」
女性に問われたので、うさぎは6月24日から29日までマレーシアへ行ったことを告げ、先方が持つ利用情報を、
手持ちのカード利用の控えと照らし合わせた。
‥それにしても。一体何が起きたのだろう。"偽造カード"って何だろう? うさぎはドキドキした。
「今は、カード自体が盗難にあわなくても、カード情報を盗まれることがあるんですよ。
‥誰かにカードを預けたことはありませんでしたか?」と女性。
うさぎはぎょっとした。あの不自然な体験、カードを巡るイスタナでのいきさつを思い出したからだ。
「あります、あります!」うさぎは即座に答え、イスタナでのことを簡単に伝えた。
「わかりました。この話は調査課に伝えておきます。
あとで調査課からまた電話がいくと思いますので、宜しくお願い致します」と女性は言って、電話を切った。
なんだ、なんだ、なんか凄いことになったぞ――。
受話器を置くと、うさぎはそこいらをウロウロした。なんだかじっとしていられない気分だった。
「どうしたの?」とネネとチャアが、不思議そうにうさぎを見つめた。
「いや、何でもない」とうさぎは答えたが、その目は異様に輝いていたに違いない。
怪訝そうな顔つきで、二人は尚もじーっとうさぎの様子をうかがっていた。
どうやら"犯罪"に巻き込まれたらしい。
うさぎは胸の中でそう呟いた。犯罪‥! けれどうさぎには何の危険も損害も及ばない。
信販会社によれば「お客様には何の落ち度もなく、悪用された分の支払いは拒否することができる」のだそうだ。
‥となると。うさぎはこの犯罪を、さながら探偵小説でも読むような具合に面白がっていられるわけだ。
「当事者としての醍醐味」と「他人事の気楽さ」を享受しながら。
後にかかってくるという調査課からの電話を待ちながら、うさぎは手を本箱に延ばした。
無性にクリスティを読みたい気分だった。小説の中の「犯罪に巻き込まれた人々」に、うっとりと自分を重ね合わせていた。
スコットランドヤードならぬ調査課からの電話で、事件解決への手掛かりを喋るうさぎ‥。
調査課からの電話は二日後にきた。相手は中年のおじさんだ。
「カードを誰かに預けたことはなかったですかね?」と彼は尋ねた。
――ほうら、来た、来た。うさぎは待ってましたとばかりにイスタナの一件を話した。
「海外のレストランは、どこでもテーブルで支払いますでしょ? イスタナの時にもそうだったんです‥」
うさぎは、ボーイがうさぎのカードを持って下がったこと、
「カードリーダーが壊れていてVISAが読み取れない、VISA以外のカードを持っていないか」と尋ねられたこと、
そして結局現金で支払ったことを話した。
うさぎの説明を、おじさんは頷きながら聞いていた。そして言った。
「イスタナ‥イスタナ、ねえ。他に宝石店などには行かれましたかね?」
「いいえ。イスタナの他にカードを一時的にでも手放したのは、シャングリラホテルのレストランと、
ペナン空港内の免税店でだけです」
「ああ、シャングリラなんて高級ホテルはね、絶対に大丈夫ですよ。空港内もね。でも、"イスタナ"の名も初めて聞きますね。
マレーシアという国は、こういうカード犯罪の巣窟なんですよ。カード情報盗難の9割以上がこの国で起きています。
その中でも特にペナンが危ない。殊に宝石店ね。――"R"という宝石店には行かれましたか?」
「いいえ。宝石店はどこも。でも"R"っていったら、有名な店ですよね」うさぎは、
旅行会社がくれた小冊子に載っていたその名前を思い出して言った。
「何でも、市内観光で必ず連れてかれる所だそうですよ‥実はねえ、もう、同じようなケースが、
毎日毎日上がってくるんですよ。で、事情を聞いてみるとね、たいていR宝石店でカードを出しているんですな。
相当怪しいですよ。で、"イスタナ"ってのはどんな店ですか」
「それこそ有名な店ですよ。観光客が大勢訪れるような。とてもいかがわしい店とは思えない。
ガイドブックには必ず載っている店です。大メジャーですよ」
「まあ、店自体がちゃんとしてても、従業員に一人でも悪いやつがいれば、犯罪は起きますからねえ」とおじさん。
‥だったら何で、「シャングリラホテルは絶対大丈夫」と思うんだろう?
おじさんは続けた。
「カードデータの読み出しなんて、簡単なんですよ。それ用の機械に通せば、一瞬でカード情報が全て読みだせるんです。
やつらはそういう機械を持っているんですな。R宝石店にしたってね、立派な店ですよ。
あんまりこういうことを言っちゃいけないんだろうが、華僑ってやつはねー、羽振りはいいが、信用できんですよ。
華僑のシンジゲートがあるんでしょうな。国際的な、ね」
国際的なシンジゲート!!
「スネークヘッド(蛇頭)とか、そーいう?!」にわかに意気込んで、うさぎは言った。
うさぎの脳裏に香港映画の世界が渦巻いた。だが、おじさんはそれを無視して続けた。
「お宅の一件はねえ、ちょっと変わったケースなんですよ。普通は一年近くも経ってから、突然ロンドンで使われたりする。
あと台湾とかね。‥でも今回は、もう数日後にはバタワースで使われてるんですよ」
‥ははーん、何となく読めたぞ。
うさぎのカードを偽造したのは、組織から外れた人間だな。
普通は足がつかないように、ほとぼりが冷めた頃になってから別の国に情報を売る。
でも、うさぎのカード情報を盗んだのは、カード偽造のやり方だけを覚えたチンピラで、偽造カードを手にしたら、
とても1年なんて待っていられなくて、ついペナンの対岸のバタワースですぐに使ってしまったのだ。
そして、そのあと情報を台湾に売った。
"R"の方はそれこそ国際シンジゲートの拠点で、悪の親玉がヌンチャクを持った用心棒を侍らせて、
店の奥にある豪華な部屋の豪華な椅子にふんぞりかえっているような店なのだろう。
でもうさぎが被害にあった店は、その組織から足抜けしたチンピラがたまたま雇われていただけなのだ。
けれど、そいつを糸口にして、もうすぐこの巨悪組織にもメスが入る。
使用履歴のない店で偽造すれば、足がつかないとでも思ったか?
残念だったな、くだらないことでも克明に覚えているこのうさぎ様に当たったのが運のツキだ。観念するがいい!
――ああ、ジャッキーチェンのような警官が、R宝石店の裏口から潜入するのが見えるようだ‥。
「ところで、バタワースや台湾での買い物が、どうしてわたし自身の買い物ではないと分かったんでしょうか?」
うさぎは不思議がって尋ねた。
「あなたの通常の買い物と、パターンが違いすぎるからですよ。金額とか、買う物とか、時間帯とかがねえ。
最近はそういうのをコンピューターが自動でチェックしてます。近々アメリカ製の最新型が入りますよ」とおじさん。
「あら、つまりいつもしみったれた使い方しかしないわたしのカードで大金が支払われたから、
コンピューターに引っ掛かったってわけですか?」うさぎは自嘲気味に笑った。
「まあね。一晩に10万程度の買い物が3回、数日間でそれが10回もありますからね。最初は専らバタワース。
最後の3、4回が台湾ですかね」
「‥でも、それらの請求が、わたしに来ないということは、一体だれが被るんでしょう、その損害を」
「我々ですよ。保険は、偽造ルートがある程度解明されないと、降りんのです。だから取り合えず、ウチが被るんですよ」
いやー、それは大変だ。
こんな詐欺にしょっちゅう会おうものなら、わずかな手数料で稼ぐ信販会社の利益は吹っ飛んでしまう。
うさぎはこの会社の行く先を心配して、情報の取りこぼしがないよう、付け加えた。
「あのー、わたし、プーケットやグアムにもこの数年の間に行っているんですが、
そこで情報が盗まれた可能性はありませんかしらね?」
だが、おじさんは言下に否定した。
「いや、それはないでしょうな。絶対ペナンですよ」
うさぎは不安になった。探偵は、どんな些細な可能性をも見逃してはならないはずだが?
一体、信販会社は、このおじさんで無事損を取り戻せるんだろうか。
このおじさんにエルキュールポアロのような灰色の脳細胞があるとはとても思えない。
第一、探偵は寡黙なものと相場が決まっている。相手から情報を聞き出しても、自分の方はぺちゃくちゃ喋ってはならんのだ。
「情報提供」ならぬ「情報交換」がすっかり終わったところで、うさぎは電話を切った。
あとは支払い拒否の書類と、帰国日を示すためパスポートのコピーを送付すれば、全て片がつくらしかった。
パスポートのコピーを送るのは何だか疑われているようでイヤだが、金銭的な損もせずに、
絶好の話のタネと風変わりな旅の思い出を得たことを思えば、まあいいか。何事も七転び八起き、災い転じて福と成す。
ネネが熱を出して貴重な一日を潰したかわりに、現地の医者にかかるという体験を得したのと同じだ。
7月も終わりの頃、偽造カードの記事が新聞に載った。カード情報が都内で盗まれ、その偽造カードが使われたそうだ。
カード情報の読み取り機は秋葉原の電器街で買えるという。
その記事は、うさぎを少なからずがっかりさせた。
それは、マレーシアでしか買えないと思っていたお土産が、実は日本でも売っていた――という無念さに似ていた。
その後のある日、カード利用の請求書が届いた。それを見て、うさぎは息が止まりそうになった。 明細欄にびっしりと記載された心あたりのない利用の数々‥。 信販会社が補填してくれているから実害はないが、ゾッとした。見も知らぬ人に土足で家に踏み込まれたような恐怖だった。
これは小説の中の出来事なんかじゃない。
現実にうさぎの身の上に起きたことなのだ。
うさぎはこの生々しい恐怖をもって、それを初めて痛感したのだった。