朝4時。部屋の電話が鳴った。
モーニングコールだ。
「おはようございます。起きてますか? 10分したら、運転手がお迎えに上がりますからね」
皆は眠い目をこすりつつ、顔を洗って服を着替えた。 今日はマラソン大会だ。 日中は暑いので、朝スタートする。 集合は4時半だ。 こんな時間に車を呼んでくるわけがないので、前もってジニーに頼み、手配してもらっていた。
しばらくすると、ドアをノックする音が聞こえ、運転手が迎えにきた。 まだ準備が整っていなかったので、「あと5分待って」と言うと、運転手は「先に車に戻っています」 と言って行ってしまった。
外はまだ真っ暗。 したくを終えてレセプションへと向かうと、大きな犬を何匹も連れた男が 一緒にレセプションのほうへと歩きつつ、 「日パ友好マラソンに出るのかい?」と尋ねた。
「ええ、ハーフマラソンを4人で5キロづつ走るんです」とうさぎは答えた。 日パ友好マラソン? そんな名目の大会だったのか。知らなかったな。
それにしても、この人は一体なんなのだろう。 朝となく夕となく、いつも大きな犬を連れてリゾートの敷地をウロウロしている。 最初の朝、カーペンターを呼んでくれたのもこの人だった。 そのときはホテルのスタッフだと思ったけれど、それにしては、いまいち仕事をしている様子がない。 こんな時間から犬の散歩をしている、 濃い口ひげを蓄えた立派な顔立ちのこの人って一体‥。
うさぎたちが車に乗り込むと、彼は、「じゃあ、頑張って!」と言った。 そのとき、突然ひらめいた。 なんだ、彼はキャロラインリゾートのオーナーじゃないか。 それしか考えられない。 どうして今まで思いつかなかったんだろう?
◆◆◆
集合場所は、トラック&フィールドと呼ばれる街中の国立競技場。 ここに集ったアスリートたちは、子どもから頭の白いおじいさんまでと、幅広かった。 年齢がさまざまなら、人種もさまざま、実力もさまざま。 小学生のグループから、パラオのオリンピック代表までいるらしい。
唯一一致している特徴はといえば、みな概ねスリムなこと。 パラワンには太った人が多いが、ここに集った人々はみなキリリと痩せている。 ――そりゃそうだ、太っていたら走れない。
このマラソン大会への参加の仕方はさまざまだ。 フルマラソンの42キロ走ってもいいし、ハーフマラソンでもいい。 更に、ハーフマラソンは、一人で20キロを走りとおしてもよし、 5キロ単位を何人かで分けてリレーもよし。 それぞれの体力に合わせて、いろいろな参加の仕方ができるのだ。
受付を済ませると、うさぎは、アスリートたちの中に、のぶこさんの姿を探した。 のぶこさんはこのマラソン大会にうさぎたちを誘ってくださった方だ。 お目にかかったことはまだないけれど、何度かメールをやり取りし、 おととい電話で話してもいる。 日本人は少ないから、よく探せばそのうち見つかるだろう。
案の定、「この方かしら?」と思える人がすぐ目に入った。 確証まではなかったので、 「のぶこさんですよね? のぶこさんですよねっ?? わたし、うさぎですぅ〜」 という電波をせっせと送っていたら、声をかけてくださった。 華奢できれいな方だ。 のぶこさんは、パラオのとあるランニングサークルの幹事で、 うさぎもその関係で知り合った。 今日はそのランニングサークルでチームを組み、駅伝を走るのだそうだ。 聞けば彼女は、パラオのナショナルチームに所属するカヌー競技者でもあるらしい。 バリバリのスポーツウーマンである。
日本人は、ほかにもまだいた。
日本青年海外協力隊のみなさんだ。
「なんでボクが5キロも走る羽目に‥」と嘆いている人もいるが、なにしろまだ20代。
きっとそれなりの走りをすることだろう。
うさぎの不安は、自分たちの走りが周囲の人々に比して極端に遅く、 大会に迷惑をかけるのではないか、ということだ。 のぶこさんは、「大丈夫ですよ。小学生もいれば、フルマラソンの人もいますから」 と請け負ってくれたが、いまだ不安は消えていない。 小学生であれ誰であれ、マラソン大会に出場しようというからにはそれなりのレベルに違いない。 ましてフルマラソンときたら‥。 フルマラソンは距離が長い分、出発時間も早い。 その出場者は4時頃にはもうバベルダオブ島の北端付近を出発しているはずだ。
なんとか皆に迷惑をかけないようにたすきを繋ぎ、 20キロを走りおおせたい――それがうさぎの願いだった。
「ハーフマラソン走者、および駅伝第一走者、集合ー!」 メガホンで第一走者の招集がかかった。 まだ朝の5時半とあって、辺りは真っ暗。 わが家の第一走者きりんが立ち上がり、 トラックの荷台に乗って、ほかのアスリートたちと共に、 空港近くのハーフマラソンスタート地点へと向かった。
第二走者の招集がかかっったのも、まだ夜明け前だった。 ネネもトラックの荷台に乗り、やはりバベルダオブ島の第二走者スタート地点へと向かった。
けれど、チャアがトラックの荷台に乗った頃には、すっかり夜が明けていた。 彼女はKBブリッジを渡ったところにある第三走者スタート地点へと向かった。 うさぎだけがアンカーのスタート地点である、パラオ大学前に残された。
うさぎがアンカーを走るのは、別に足が速いからではない。 その逆で、足の速い順に編成した。 その方が、大会のお荷物になりにくいと思ったからだ。
頼むよ、みんな、
ビリでもいいから、極端に遅れをとることなく、走ってきて!
◆◆◆
チャアが行ってしまってからが、長かった。
幸い、のぶこさんもアンカーだったので、おしゃべりでヒマを潰した。
「うちは、3人で走るんですよ」と彼女は言った。
「一区は仲間が5キロ走って、二区と三区はうちの旦那が10キロ走るの。
でもねー、犬を家の中に閉じ込めてきちゃったから、
途中でうちに寄って、犬を外に出してきて、と言っておいたから、
タイムはあんまり期待できないわね」
「ところで、この大会って、日パ友好マラソンなんですってね。
その割に日本人が少ないですね」
「えっ? 友好マラソン? なにそれ? 全然そんなんじゃないわよー!」のぶこさんは笑いころげた。
‥そうなんだ。
ヒゲのおじさんは、うさぎたちが出るから、「日パ友好マラソン」だと思ったのね。
パラオに住む日本人の共通の悩みは、お風呂に入れないことのようだ。
「水シャワーがパラオの標準的な住宅装備だから、うちは温水シャワーがあるだけいいんだけれど」
とのぶこさんは言った。「でもときどき日本の実家に帰って湯船に浸かると、
うおおおお〜っ、と思わず声が出ちゃうわね」
「湯船かあ‥、湯船なんて、ここ1年半以上、浸かってないわ。
パラオに来てから一度も。うちなんか、水シャワーですよ、水シャワー」と青年協力隊のお姉さん。
そうこうするうち、ようやく、最初のランナーがやってきた。
ずいぶんお年を召した方だ。
彼はペースを変えることなく、颯爽と走り抜けていった。
「おや、トップバッターは駅伝じゃなく、ハーフのランナーなのね。
さすが、日頃から走り込んでいる人は違うわね」とのぶこさん。
二位のランナーもやってきた。続いて三番目も。 皆、中継地点を走り抜けてゆく。 なんと、みんなハーフマラソンなのか。
四番目になって、やっと駅伝のランナーがやってきた。 へとへとに疲れた第三走者が足をゆるめると同時に、アンカーが元気に走り出して行った。
五番目にやってきたのは、のぶこさんのご主人だった。 のぶこさんも颯爽と出発した。
六位、七位、八位‥。続々とランナーたちがやってきた。 「あの子はパラオ陸上界のホープでね、海外でいい成績を収めているのよ。 なんで今回は駅伝なのかしら」とのぶこさんが教えてくれた18歳の青年も、短距離走みたいな勢いで走り去った。
11番目か12番目くらいだろうか、なんと、チャアが走ってきた‥!! 信じられない! 駅伝だけでいうと、7位くらいだ。 まだ青年協力隊チームも来ていないのに!
チャアの走りは軽快だった。顔は真赤になって膨れていたけれど、足取りは軽く、 まだまだ余裕がある。道のこちら側が中継所と見るや、 車道の車をよけながら軽やかに道を横切ってくる。
ああよかった、ここまで早ければ、うさぎがどう遅くても、ビリにはなるまい。 迷惑をかけずにゴールできそう。 ああよかった。
うさぎはチャアからたすきを受け取ると、なるべくゆっくりと走り始めた。 うさぎの場合、速さなんて言ってはいられない。 とにかく皆が繋いだこのたすきをゴール地点であるPPRに持ち帰ることだけを目標に頑張らなくては。
今さっきチャアが追い抜いたばかりのチームのアンカーが、 すぐにうさぎを追い抜いていった。 でも、焦らない、焦らない。マイペース、マイペース。 相手は長身の西洋人女性。 どう見たって、コンパスの長さからして全然違う。
5キロずっと走り続けることは、うさぎにはまず不可能だ。 でも少なくとも最初の1キロくらいは走り続けたい。 せめてコロールを抜け、アラカベサン島に入るくらいまで。
‥って、なんだかわき腹が痛くなってきた。 まだ500メートルも走ってはいないというのに‥。 まだシニアシチズンセンターの前にも来ていないじゃないか!!
橋はまだまだ先だろうか。 振ってる腕が疲れてきた。これをおろしたら、どんなにラクになるだろう。 でも、腕をだらんとして足だけ動かせるものかしらん? ‥ああー、まだインフォメーションセンターも過ぎていないよー。 シニアシチズンセンターとインフォメーションセンターって、こんなに距離あったっけ?
後ろから、中年の西洋人女性が追い抜いて行った。 おっと、また抜かれてしまった。 でもうさぎとどっこいの年齢、うさぎとどっこいの体型だ。 これは抜き返すのは無理でも、なんとかついていきたい。 なんとか‥なんとかついていかなくちゃ‥。
――ダメだ〜っ! とってもついていかれない。
橋はすぐそこに見えているのに、なかなか近づいてはこない。 腕が疲れた。歩きたい。 でもせめて橋までは‥。
ああ、もうダメ‥。わき腹が痛くて死にそう。 ここはひとつ、無理せず歩こう。 橋を渡りきるまでは、ひとまず小休止といこう。
橋だ。コロールとアラカベサン島を結ぶ橋。 橋のど真ん中で工事をやっている。 ‥チッ、工事の部分が迂回している。 ちょっとも余分には走りたくないのに。
‥また抜かれてしまった。背の高い黒人男性の二人組みに。 一人はCDプレイヤー片手に、音楽を聴きながら走っている。 えらい余裕だな。 全然疲れてないみたい。 みんなどうしてそんなに元気なの〜?!
やっと橋を渡りきった。 さあ走り出さなくちゃ。 国立病院の前にきた。 ああもう、早くも山登りだ。
一人、二人‥。また抜かれてしまった。 これで何人目? みんな、ゴメン。 みんなが作ってくれた貯金をどんどん使い果たしていくママを許して‥!
お、向こうに給水ポイントがあるぞ。 とりあえずこの前だけでも、走ってるフリしておかないと。
給水ポイントにきた。 紙コップの中には、なにやら薄黄色い液体が入っている。 なにこれ? スポーツドリンクだろうか。 ‥まずい。 一口飲んで、返してしまった。
なにやら賑やかなネオンをぶら下げたレストランの前に来た。 「水晶宮」と漢字で書いてある。 クリスタルパレス? たしかコロールにもそんな名前のレストランがあったな。 姉妹店だろうか。 地球の歩き方に載っていたかしらん? なんか日本人にはウケなさそうな店だ。
登りがかなりきつくなってきた。 なんなの〜? この坂〜?! こんなところを走るなんて論外だ。 無理せず歩こう。
「おーい! ママーっ!」
トラックが追い抜いて行った。
荷台にネネときりんが乗っている。
「歩いてちゃダメじゃん!!」
くすん、そんなこと言ったって‥。
「あともう少しで半分です! 頑張ってください!」 そういいながら誰かが追い抜いていく。 青年協力隊のお姉さんだ。 坂を元気に登ってゆく。 いいなあ、若いって‥。 こっちは息が切れて、「はあ」とも「へえ」ともつかない返事しか返せない。
ああ、やっと馬酔木バーベキューレストランまできた。 これでカンペキ半分は来た。 ちょっと先が見えてきたような気がする。
「ママ〜ッ!!」 チャアの声だ! チャアが車から応援してくれている! この辺はなだらかだし、少しは走ろう。
お、そろそろキャロラインリゾートの入口だ。 道の向こう側を小学生の男の子が走っていく。 ガーン‥。小学生にまで抜かされてしまった‥。
なんだかだんだん心配になってきた。 一体何人に抜かれたんだろう? 一体あと何グループ残っているんだろう? たしか小学生の女の子のグループが2グループくらいあったよね。 彼女たちにはまだ追い抜かれていない。 なんとかビリだけは避けたい。 彼女たちに抜かれそうになったら、そのときこそ、絶対、何がなんでも走るぞ!!
キャロラインリゾート入口のそばのあづまやで、 若い西洋人の母さんと小さな女の子が、声援を送ってくれた。 ありがとうございます。 すみません、しょぼいランナーで。
さあ、ここからは坂を転げ落ちるだけ! あと1キロくらいだ! 疲れて疲れてもう死にそう〜! でも完走は間近だ! PPRの朝食ビュッフェはどんなかな?
見たこともないきれいな花が、民家の庭に咲いている。 きれい〜! 思わず足を止めてじっくり見たくなる。 でもダメダメ! 足を止めるのだけは、絶対ダメ! ここはキャロラインリゾートのすぐそば。 あとでまた見に来よう。
PPRはもう目と鼻の先。さあ走るぞ! ラストスパートだ!!
‥って、ありっ?! 道が二つに分かれてる?! どっちに行けばいいの〜っ?!
おっと、ラッキー♪
車が通りかかった。
「すいませーん! PPRはどこですか?」
「こっちです、こっち!」
さっき誰かが、テニスコートの脇から入るんだ、って言ってたな。 そうすると、レセプションのほうじゃなく、車寄せのほうだ。 最後くらい走ろう! 走ってゴールするんだ!
‥って、ゴールはどこ〜っ?!
あ、係りの人がいた。
「アーユー・ア・ランナー?」
「イエス、アイドゥ!」
‥違った。「イエス、アイアム」だ。
「OK! ゴーダウン・トゥー・ザ・ビーチ!」
‥って、ここがゴールだったのかな? みんなはどこにいるんだろう? この階段を降りたらビーチのどこかにいるのかな。
ビーチに下りたら、あっ! 見えた! 向こうのほうに、人がたくさんいる! あそこで早速パーティをやっているんだな。
あー疲れた。さあ、ゴールしたことだし、ゆっくり歩いてクールダウンだ。
「ママーッ!! 歩いてちゃダメじゃん!!」 チャアの声だ。 なんで? もうゴールしたんじゃないの? とりあえず走ってみる。
‥あ、あそこだ。ゴールはあそこなんだ。 椰子の葉を飾ったゲートが作られている。 走れーーーーーーっ!
ゴールイン!!
◆◆◆
「ねえ、小学生の女の子たちはまだ帰ってきてないよね?
ママ、ビリじゃないよね?」
「うん、まだ帰ってきてないチーム、いっぱいあるよ。大丈夫、ビリじゃないよ」
「ああよかった〜!」
‥結局、きりうさチームは、30〜40チーム中、「半分よりはちょっと後ろ」くらいの成績だった。 約20キロの距離を、4人で2時間15分で走り抜けた。 最初の5キロをきりんは25分でカバーし、ネネは29分で走破した。 チャアのタイムは不明だが、彼女は区間健闘賞をもらった。 また、「ファミリー賞」という、うさぎたちのために急遽作ったとしか思えない賞ができていて、 それももらった。
さすが、のぶこさんのチームは、途中で犬の世話までして、2位だった。 青年協力隊のアンカーのお姉さんも、区間健闘賞をもらっていた。 小学生の女の子チームは、アンカー同士、二人でニコニコ手を繋いでのんびり歩いて帰ってきた。 途中で疲れて車に乗せてもらい、また降りて走ってる人もいた。 ――とにかく、いろんな人がいた。 自己記録更新に燃えるフルマラソンランナーもいれば、 お祭り気分の駅伝参加者もいた。 全体のパイが限られているだけに、 小さな国のマラソン大会には、いろんなニーズをおおらかに汲む、懐の深さがあった。
走ることが好きなら、それでいいじゃない。
細かいことは言いっこなし!
それぞれ、自分なりのスタンスで、
自分なりのペースで走ればいいんだよ。
――そんな雰囲気があった。
必ずしも、必死に頑張らなくたっていい。 いつもの自分より、ほんのちょこっと頑張ればいい。
家族4人で20キロ、たすきを繋いだみんなに、乾杯!!