舟がしばらく進んでゆくと、水路がくびれたところに別の舟が留まっていた。どうも座礁したらしい。 我らが船頭は舟から降りて舟を後ろから押し、何とか座礁した舟の横を通りすぎた。 それを見てうさぎはびっくりした。濁流なので今まで分からなかったが、ここの水の深さは、 船頭のひざまでもないのだ! 水深わずか数十センチ。これじゃあ座礁もするわな。
あの人たち運が悪いわね‥なんて人ごとのように思っていたら、船頭は自分の舟を置いて、 座礁した舟のところへ助っ人に行ってしまった。
座礁した舟はうさぎたちの舟よりも一回り大きく、20人以上の人で満員御礼であった。
うさぎたちの舟の横にもう一艘、その舟と同じような満員の舟が待機した。三人の船頭が座礁した舟を押す。
だが、船はビクともしない。
「ありゃ、重すぎて動かんわなー」と後ろのじい様。じい様はさっきから、となりの舟と親睦を図っている。
「どっから来たの? タイワン? あ〜、わたしらは日本人!」なんて。
台湾人は日本語が少しならできる人がけっこういるらしく、日本語で充分通じている。
シンガポールに工場を持つという実業家のじい様、さすがに度胸がある。
となりの舟と座礁した舟とに、どうやら一つの団体が分乗しているらしい。 ホテルでも、寺院でも、船着場付き場でも見かけた、 あの派手な赤地に金文字の「中華観光」の大型バスでやってきた人たちだろうか。
舟は、相変わらず座礁したままだ。 そのうち、座礁した舟のお客が、一人、また一人と立ち上がって水に入り、舟を押しはじめた。 上品なおばあちゃままでが、加勢はしないものの、舟を降りた。 その足は泥水に浸かっているのに、優雅に日傘を差し、しゃんと背筋を伸ばして、 まるで陽だまりの公園にでもいるみたいにおっとりと微笑んでいる。
と、後ろのじい様が何を思ったか、突然立ち上がり、舟のお尻の方までよろよろと歩いて行った。 じい様が一足歩く毎に、舟は右に、左に、大きく傾いだ。
おいおい、舟から落ちたらどうするのーっ?
ばあ様は、じい様の奇行には慣れっこの様子で、すました顔で座っている。
しばらくするとじい様はまたよろよろと席に帰ってきて言った。
「こういうハプニングはカメラに収めにゃいかんよ。
ここからじゃあ座礁した舟がよく見えんからな、後ろのほうで撮ってきた」
うさぎは絶句した。なんて酔狂なじい様なんだ‥。
半分以上のお客が降りて押したところで、やっと舟は浅瀬からぬけ出した。
台湾の団体さんたちは大喜び! うさぎたちも何だか嬉しくて、いっしょに拍手をした。
船頭が帰ってきて舟を出そうとすると、
"Thank you for waiting us!" (待っててくれてありがとう!)と隣の舟から、うさぎたちに向かって誰かが叫んだ。
うさぎたちはにこにこしながら手を振った。
ああ、旅っていいな。これが旅の醍醐味だな。
顔も身なりもまるで日本人と変わらない、なのに異なる言葉を話す人たち。
でも、その気になれば話ができる。同じ気分を共有できる。
最初はアクシデントだと思った座礁事件は、終わってみれば、すてきな思い出だった。
本当は、自分たちの舟の船頭が助っ人に行ってしまった時、うさぎはちょっと〔運が悪いな〕と思ったのだった。
こんなところで時間を食ってたら、観光の時間が減るじゃないか。
と、了見の狭いことを考えたのだ。 船頭さんたちが舟を押している最中も、なんだか時間ばかり気になって、早く舟が座礁から抜け出せばいいのに、 と思っていた。
でも、みんなが舟を押して舟が動き出し、
ただ見ていただけの自分たちに"Thank you for waiting us!" という言葉がかけられた瞬間、
うさぎは初めて分かった。
「旅って、こういうものなんだ」って。時間通り、手筈通りに、決められた観光ルートを見て回るのが旅じゃない。
こんなハプニングに遭遇するなんて、運が悪いどころか、とっても運が良かったんだ
って、分かった。
だが、アクシデントが思い出に変わったこの瞬間、同時にうさぎは深い後悔にさいなまれた。
しまった! じい様を見倣って写真の一枚も撮っておくんだったーっ!!
という‥。