朝食後、子どもたちがキンキンと金属のような音を立てる古いピアノを弾くのを 聴きながらソファにくつろいでいると、マーシャがやってきた。
「今日はどのようにお過ごしのご予定ですか?」
「午後はホストファミリーと過ごします。
午前中はこの辺を歩いてみようかと思っているのですが」
「それは良いですね。この辺はミネアポリスの中でも歴史ある地域でしてね、
たとえばこんなトレイルがございますのよ」
そういって彼女はピアノの上からパンフレットを一枚取り上げた。
そこには「ヒストリカルトレイル」(歴史の散歩道)と銘打った地図が書いてあった。
マーシャは地図を指さしながら続けた。
「わたしたちが今いるレブロンハウスはこの、地図の端にあります。
家の脇をまっすぐ行くとミシシッピ川に出ます。
その川沿いをこの点線に沿って歩いていくと、
‥そうですね、30分から40分くらいの散歩になるでしょうか」
「それはいい!」とうさぎたちは手を叩いた。 淡い色調で船やら建物やら橋やらが書き込まれた地図を見ているだけでワクワクする。 これはさっそく地図を持って出発だ。 うさぎたちはマーシャに礼を言うと、カメラビデオを携えて外に出た。
◆◆◆
マーシャが説明してくれた通り、閑静な住宅街を歩いていくと、2ブロックほどで川に出た。 アメリカ中部の大動脈ミシシッピ川は、ミネソタにその源を発する。 「上流のほうではミシシッピ川をわずか七歩で渡れる」というのは、 ミネソタ観光の謳い文句の一つである。 尤もそれは北部の話で、さすがにミネアポリスまで南下すると、 ミシシッピー川もそれなりの風格をたたえてくるのだが、 それでもまだ大陸をとうとうと流れる大河というほどでもない。
それにしたって、こんなに狭い川だったっけ? 道路から見下ろすと、深いグリーンの水をたたえた川は、 勢いづいた初夏の新緑に、ほとんど覆いつくされそうだ。 地図をもう一度見直すと、それは中州によって仕切られた川の一部だということが分かった。 そりゃそうだ、いくらなんでもミシシッピ川がこんなクリークのごときはずがない。
川沿いを少しばかり行くと、鉄道に出くわした。 川の数十メートル上を線路が横切り、そのまた数十メートルを、今歩いている道が横切る。 橋から線路を見下ろすと、なんだかそこだけ西部劇の世界のようだ。 赤茶けた線路は大して使われているようには見えない。 川の上で線路を支える橋は、なんと木でできていて、 線路の幅ギリギリにただ横木が並べてあるだけ。 橋というよりは、「線路に敷いたすのこ」くらいの表現がぴったりする最低装備だ。 うさぎは、すのこをガタガタいわせながらここを走る貨物列車を想像してみた。 28年前に聞いた汽笛を思い出しながら。 日に一度二度しか通らない長い長い汽車はいつも、 何事かと思うようなえらくけたたましい汽笛を鳴らして走り去っていったものだった。
またしばらく行くと、中州へと渡れる鉄橋があった。 鉄橋だから新しいと思うことなかれ。 銘文によれば、1887年建造である。 確かに、欄干のお洒落さと体躯の無骨さが、いかにも100年前の技術を思わせる。 このクラシカルな橋も西部劇の一部だ。
橋を渡っていると、右手に橋、左手にも橋が見えた。 古い橋や、新しい橋。 鉄橋や石の橋、そっけないのやら凝っているのやら。 川のある街というのはすなわち、橋の街なのだ。
緑濃い公園のような中州で水鳥を追いかけて遊んだあと、
20世紀に建造されたと思われるモダンな橋を渡って対岸へ。
橋から遊歩道へと下る階段をリズミカルに降りながらネネが言った。
「こういう国なら、外国もいいね」
「こういう国ってどういう国?」
ミネアポリス中心部の摩天楼を何気なく見上げながらうさぎは尋ねた。
「清潔な国。アジアは汚い。ここは清潔できれいな感じがする」
遊歩道に沿って、木材やらなにやら積んだ長くて広くうすべったい船が
ゆっくりと川を下ってゆく。
うさぎはそれに一瞬カメラを向け、途中で気が変わって撮るのをやめた。
フォトジェニックとは言いがたい船だ。
いかだを繋げたような簡素な舟。しかもサビサビ。
「あの船も清潔? きれい?」うさぎはネネに意地悪く尋ねた。
「いや‥あれは汚いけど」とネネは答えた。
しばらく歩くと、 ジョギング途中とおぼしき女性が水飲み場でおしりを丸出しにして汗を洗い流していた。 ぎょっとして思わず見て見ぬふりをしたが、先方は気にする様子もなく、 水を飲もうとしたら、ニッコリ笑って水を出してくれた。 間近でその顔を見てちょっとびっくり。 服装からして若い人かと思ったら、 そろそろ「おばあちゃん」と呼べそうな年齢の人だったから。
前方には崩れかけたビルが見える。
解体途中なのか、火災にでも遭ったのか。
その向こうには製粉所の大きなタンク。
川の向こう岸にも別のタンクが見える。
ここはミシシッピ川の水運に恵まれ、製粉で栄えた街だ。
「ああいうのも清潔? きれい?」うさぎはまたネネに尋ねた。
「ああいうのはなんかちょっと怖い」と、ネネの代わりにチャアが答えた。
そう、一つ一つを見れば、そんなにきれいなものばかり並んでいるわけじゃあない、この街は。 だけど確かに、なんだかきれいだ、と思った。 雑多なものがあれこれ同居しているのに、どこかすっきりとしている。 ゆったりとした道、広い空のせいだろうか。
100年以上の歴史を持つ長い長いストーンブリッジには ジョギングをする人々の姿が目立った。月曜の午前中にもかかわらず。 走るのは若い人ばかりかと思いきや、近づいてみるとあんがい年のいった人も。 でも年齢を重ねることが魅力になりこそすれ、ちっとも荷物になっていない。 街もそうだ。 古いものが魅力になりこそすれ、荷物になっていない。 若い人も年のいった人も、古いものも新しいものも、 「それはそれでいいじゃないか」という顔をして並んでいる。 うさぎはさっきサビサビの船を写真に収めなかったことを、ちょっと後悔した。 あれはあれでいい味を出していた‥かもしれない。
長い橋を渡って元の河岸に戻ると、そこは公園だった。 芝の上をあっちにリスが一匹、こっちにも一匹。 小動物の好きなチャアが追いかける。 リスはすばしっこくて、マヌケな人間になど捕まりっこないのだけれど。
うさぎがここから大して離れていないミネソタ大学のキャンパスで、 今のチャアと同じようにリスを追いかけたのは、28年前のことだった。 当時、100年という歳月の長さは到底手の届かぬものと思っていたけれど、 今と当時の間に横たわる時間は、その4分の1よりも長い。
‥と、何か白い小さなものが目の前を横切った。 なんだろうと思っているとまた‥。 3度目は思いっきり顔にぶつかってきた。 一体これは何?
公園を抜けて街に出ると高層ビル、その脇の階段を登りきったところには
美しい教会があった。
突然、きりんが顔の前を手で払い、
「もう! なんなんだ、これは一体?!」と大きな声を出した。
「‥これじゃない?」
うさぎはレンガ敷きの歩道から白いもわもわを拾い上げた。
白く柔らかい綿毛に、小さなタネがついている。
たんぽぽ同様、きっとこの綿毛で種を遠くに飛ばすのだ。
次のブロックは、これまたどこか西部劇に出てくる小さな町を思わせる通りだった。
どこがどう西部劇というのでもない。
ただ、なんとなく。
どこがどう、日本の町並みとものすごく違うというのでもない。
ただなんとなく、やっぱりここはローラが暮らしていたのと同じ、ミネソタなのだ。
◆◆◆
レブロンハウスに帰り着くと、ネネが言った。
「けっこう楽しかったな。
今まで街を歩くなんてつまらないって思っていたけど、こういう街なら好きかも」と。
「こういう街ってどういう街?」と尋ねると、
「だから、"こういう街"だよ!」とネネは答えた。