Minnesota  ホストマザーに会いに

<<<   >>>

【 エピローグ 】

朝食を終えて準備を済ませた頃、マムたちがレブロンハウスに見送りにやってきた。 皆で最後の記念撮影をし、体の具合が良くないマムとここで涙ながらに抱き合って別れた。 「ここ数年で、こんなに調子が良かった日はないわ」とおととい言っていたマムは、 昨日、今日と体の調子を落としていった。 うさぎたちが疲れさせすぎてしまったのかもしれない。 お別れの挨拶を済ませると、シンディとステラがホームにマムを連れ帰った。

一方、メアリーとシドは、空港まできりんの代わりに運転し、レンタカーの返却を手伝い、 最後の最後まで面倒を見てくれた。 空港の入口で交わしたメアリーとの別れこそが、うさぎにとってはミネソタとの決定的な別れとなった。 次にここに来るのはいつだろう? 10年後? 20年後? そのときメアリーは、ミネソタは、そしてうさぎは、一体どんなふうになっているのだろう。

ここにやってくる前、うさぎは、空間的な隔たりばかり気にしていた。 ミネソタは果てしなく遠くに感じられたし、 空港からミネアポリスまでが、これまた果てしなく思えた。 ミネアポリスの宿からマムの家までどうやって行ったものかとさんざ考えもした。 だから、メアリーのおかげでさしたる困難もなくマムに会えたときの嬉しさといったらなかった。

でも、ここに来てから感じたのは、むしろ時間的な隔たりだった。 日本の我が家からミネソタのマムまでの空間的隔たりをクリアしたあとに残ったのは、 28年前と現在との時間の隔たりだけが残った。 28年という時間は、中学生だったうさぎを中年にし、 「メアリーおばさん」だと思っていた人を「メアリー姉さん」にし、 ノースブランチをカントリーサイドの村から郊外の街にしていた。 このミネソタへの旅は、うさぎにとって空間旅行ではなく、時間旅行だった。 どこへ行っても何を見ても、うさぎは絶えず28年前との距離を測っていた。

かつてミネソタへやってきたとき、 うさぎはそこに100年前の開拓時代の面影を見出すのに一生懸命で、
「これはローラが見たのと同じ景色だ」
「これはローラが持っていたのと同じものだ」
「これはローラがやったのと同じことだ!」
そういう「変わらないアメリカ」を見つけては、いちいち喜んでいた。

そしてその一方で、
「普通の家庭に衣類乾燥機や食器洗い機がある」
「スーパーにベルトコンベヤーがある」
「使い捨ての紙で手を拭く」
そういう当時のアメリカのSFのような生活に、いちいち驚いたものだった。

でもうさぎは知らなかった。 そのアメリカの歴史にまだ続きがあるだなんて。 開拓時代から続いてきたアメリカは今やSFのような生活にまで進化し、 そこで変化の終着駅を迎えているものと思いこんでいた。

自分が大人になって子供を生み、 今の自分と同じくらいの歳になったその子たちを連れて再びミネソタを訪れるかもしれないと 想像したこともなかった。 28年も先に、この続きが待っているとは思ってもみなかった。 だいたいが、将来だの未来だのの夢を始終語っている割には、 自分の前に何十年も先まで未来がずっと続いているという確信などなかったように思う。 その証拠に、二十歳の自分を想像したことはあっても、三十、四十になった自分を想像したことはなかった。

或いは人間は、自分の歩んできた過去の長さまでしか、未来を想像できないのかもしれない。 たかだか14年しか過去を歩んでいなかった当時のうさぎに、 未来はせいぜい14年先までしか見えていなかった。

でも今は違う。 今やうさぎは40年という長い時間を歩み、 40年先までの自分の姿がなんとなく想像できるようになっている。 自分の後ろに過去があるのと同じように、前には未来が続いていると信じている。 「今」という時間はそうやって、 過去と未来の両方に同じ力でひっぱられながら存在しているものなのかもしれない。

メアリーと別れて娘たちを急き立てながら空港の入口を入ったとき、 ふとうさぎは28年後の自分の姿を想像した。

中学生の孫娘と一緒にここに降り立つ自分の姿を。

<<<   ――   A-1   ――   >>>
TOP    HOME