2003年3月16日 わたしの娘は左利き

チャアは左利きです。たぶん生まれつき、先天的に。

チャアが生まれるまで、うさぎは左利きというのは後天的なものだと思っていました。
たまたま左手を使うことに慣れてしまった人が左利きになるのだろうと。
チャアが生まれて初めて知ったの。 生まれつき左利きなんてことがあるんだなあ、って。

チャアが左手を使い始めたのは、まだ一歳になるやならずの頃でした。
自分でスプーンを持って食事をし始めた頃のこと。 うさぎはいつも右に柄がくるようにスプーンを置くのだけれど、 チャアはいつも左手にスプーンを握ってしまう。 右に持ち替えさせてもダメ。次の瞬間にはまた左に持ち替えてしまいます。

それはうさぎにとって、なんともいえない新鮮な驚きでした。
ママは右利き、パパも右利き。ネネも右利き。 おじいちゃんもおばあちゃんもみーんな右利きで、左利きの人は誰もいません。
なのに、チャアだけ左利き!
ああ子供って、やっぱり天から授かるんだわ。
――うさぎはそう思いました。
確かにチャアはうさぎのお腹から生まれてきたはず。 きりんとうさぎの遺伝子だけで作られているはず。 なのに、二人が全く持っていないものを持っているんですもの。
この未知なる因子は一体どこから来たのかしら?
DNAの中に深く深く秘められて、 チャアが生まれる時を何世代も待っていたのかしら?
チャアが持っている左利きという性質は、うさぎの目には とても不思議で魅力的に映りました。

けれどもきりんはまた違った考えをもっていました。
これはちょっと困ったぞ、ときりんは思ったの。
「世の中は、ハサミでも何でも、右で扱うように作られている。
文字だってそうだ。漢字もひらがなもアルファベッドも、みんな横棒を左から右に書く。
右利きであることを前提にして作られているんだ。
だから今のうちに、何でも右手でできるようにしておいた方がいい」
そうきりんは言うのです。

確かにそれも一理あります。
うさぎはチャアの左利きが気に入っていたので、 本当はそのまま放っておきたかったのだけれど、 きりんがそう言うので、スプーンを右手に持ち替えさせるのを、続けることにしました。

けれど。それでもチャアの左利きは変わりませんでした。
幼い頃のチャアはそれはそれはおっとりしていて、 簡単にパパやママの思惑にハマってくれるので、思い通りに動かすのは訳ない子でした。
でも、そんなチャアにでも、 右手にスプーンを持って食事をさせることだけはできませんでした。 半年間、毎日毎日食事の度にスプーンを左手から右手に持ち替えさせ、 それでも結局チャアの左利きは変わらず、ついにパパとママは諦めたのです。

◆◆◆

話はまだまだ続きます。
小学校に上がる前、エンピツを右に持たせるか、左に持たせるかという論議が きりんとうさぎの間に持ち上がりました。 そしてきりんがチャアに言いました。
「字は右手で書きなさい」と。
学校に上がる前の数ヶ月、右手で文字を書く練習が始まりました。
チャアはひらがなのワークブック一冊、右手で書いた文字で埋めました。

小学校に上がっても、チャアは頑張りました。
大好きなパパに、字は右手でと言われたのです。
担任の先生は左手で字を書いても何も言いませんでしたが、 それでもチャアは右手で文字を書き続けました。
何年もそうしている間に、チャアは右手で文字を書くのが当たり前になりました。
左手では文字がかけないくらいになりました。

けれど。ほかのことは相変わらず左手でしました。
箸を握るのはもちろん左手、右利き用のハサミはついに使いこなせず、 左利き用のハサミを左手で使います。 消しゴムで消すのも左手。同じエンピツを使うのでも、絵は左で描きます。
唯一文字を書くときだけ、右で書くのです。

チャアは4年生になりました。
この間のお正月のこと、お書き染めの宿題が出されました。
チャアは習字が苦手だったけれど、パパとママについててもらい、
「ハイ、伸ばす伸ばす伸ばーす! そこで元気良くはねるっ!」などと 掛け声をかけてもらったら、自分でもびっくりするほど上手にかけました。 それでお習字が急に好きになり、お習字教室に通うことにしました。

お習字教室にはじめて行った日。
お習字の先生はお年を召した方で、チャアが墨を左で磨り始めると、 チャアの右手に手を添えて、「こっちの手でなさい」とおっしゃいました。 チャアはその言葉に従い、右手で墨を磨りはじめました。
うさぎは脇でその様子を見ていてびっくりしたの。
だってチャアが右手でぎこちなく墨をすりながら、 左手の拳を握り締めていたんですもの!
その瞬間、うさぎにはチャアの脳の中がどうなっているのか、 分ったような気がしました。
チャアの脳は、チャアの左手に向かって指令を出しているのだ、「墨を磨れ」と。
そして、チャアは、左手で受けたその指令を、必死に右手に移し替えているのだ、と。
左手は脳から右手に指令をつたえるための中継地点、 だから左手をぎゅっと握り締めていないと、右手で墨を磨れないのです。

そういえば。
チャアが算数の問題をやっているときのことをうさぎは思い出しました。
チャアはエンピツを左手で握っていないと考えられない。 左手でエンピツを握って考えて、答えが出ると、右手でノートに書くのです。
ところがときどきエンピツを右手に持ち替えたとたん、答えを忘れてしまうことがある。 そうするとチャアは、もう一度エンピツを左に持ち替えるのです。

「右利きの人は左側の脳を使って考える。左利きの人は右脳を使って考える」
とどこかで聞いたことがあります。
それが本当かどうかは分かりません。だけどチャアを見ていると、 確かに脳の動きと手の動きには何かの関係があるような気がします。

だから最近、うさぎはチャアに言ったのです。
「左手で字を書いてもいいよ」と。

そんなわけで。左手で書いた線分図に右手で数値を書き込んでいたチャアは、 数値も左手で書き込むようになりました。
それを隣りで見ているきりんは困ったような顔。 だけど、エンピツや消しゴムを頻繁に左に右に持ち替えるチャアを見ていて、 気持ちが揺れているのが分かります。

漢字、ひらがな、アルファベッド‥。
一体どうしてどれも右から横棒をひくんだろうね。
でもねチャア、この広い世界には、左手で書くのに適した文字だってあるんだよ。