2003年4月27日 あがり症

今日はネネのバレエコンクールでした。

ネネはバレエ歴8年。 バレエが大好きで、数年前からコンクールにも出してもらえるようになりました。
とはいえ、とても入賞を狙えるようなレベルではありません。 約200名ほどの出場者の中で、"目指せ二桁!"というところでしょうか。 「参加することに意義がある」レベル、 アタマから数えるよりオシリから数えた方が早いかも?っていうレベルです。

しかもネネちゃん、"あがり症"なの。
昨年のコンクールで見事なまでに上がってしまい、全然実力が発揮できなかったので、 今年こそは、と密かに祈っていたのだけれど、舞台袖から出てきた最初の瞬間から、 「あ、コリャもう上がってるわ」と、傍目にも分かるあがりようでした。
昨年よりもなお悪い。 昨年は、袖から出るところは良かったんだけれど、 板付き(舞台の上で音が出るのを待つこと)から上がってしまったから。

今回踊った振り付けは、ネネにはただでさえ難しすぎて、一体コンクールまでに 仕上がるんだろうか??と思っていたものでした。 見せ場に次ぐ見せ場に、曲の最後まで体力を持続させるのがやっと。
それでもコンクールが間近に迫った最近はさすがに調子が上がってきていて なんとかまとまってきたので、"さて本番や如何に"と思っていたのですが、 結局、見せ場となる大技は何一つきれいに決めることができませんでした。

きりんもうさぎも、バレエのコンクールを見に来るのは、わが子見たさが半分、 10年後のバレエ界を担う金の卵を探す目的が半分、というバレエオタクですから、 いつもなら、出場者の一人一人に関する個人的採点をプログラムに書き込むのに忙しくて、 ネネの番が終わっても席を立たないのですが、 さすがに今日は二人とも思わず席を立ち、ネネの様子を見に楽屋へ行きました。

そしたら案の定、化粧に涙の跡が‥。やっぱり悔しかったんでしょうね。 相対的な評価はともかく、「今年こそは自分自身で納得のいく踊りを」 と本人も思っていたのでしょう。

本当に、どうしてコンクールだと上がってしまうんでしょうね。
発表会の本番には強く、 「本番が一番よかったんじゃない?」っていうほどの出来に仕上がることもあるのに。 審査員の先生方の前で踊るという形式は変わらず、 ただ入賞と順位がないだけの模擬コンクールでだって、こうも上がらないのに。 どういうわけだか、コンクールの本番では上がってしまう。

コンクールが始まる前までは平気な顔をしていたんですよ。
バレエコンクール出場の隠れた必須アイテムともいうべき"つけまつげ"を 家に忘れてくる余裕?すらあったのに。
舞台袖で見守っていてくださった先生曰く、
「舞台袖で待機しているときも平気な顔をしていたのに、 袖から出る瞬間に上がっちゃったみたいね」ですと。

入賞の期待がかかっているわけでもないし、予選通過レベルですらないから、 とくにプレッシャーがあるとは思えないのに。 ただ自分の納得がいくように踊りたいだけなのにね。

なんとかならないのかな?
あがり症を治す方法ってないのかな。

「人」という字を書いて飲むとか、よく言いますよね。
うさぎはわりと本番に強いタイプなので、余計ネネがかわいそうに思える。
どうしてあがる人とあがらない人がいるのかなあ?
ネネのバレエの先生は、 「しょうがないですよ、思春期なんですから」って慰めてくださったけれど、 それを言うならまわりの子たちだってすべて思春期の娘ばかりなのだし、 思春期が過ぎればあがらなくなるという保障もない。

――そんなことを考えつつ、予選敗退が決定的となったため、ネネを除く3人は 会場を後にしました。 それで家に帰ろうと思ったのだけれど、 ふと思い立って、急遽「リス園」へ行くことに。

‥あっ、断っておきますが、別に「リス園」に行ったこと自体に意味はないのよ。 たまたま会場の近くだったから寄っただけで。

重要なのは、 リス園に行ったあと、やっぱり本選が気になってまたコンクール会場に戻ったことです。 わが子のアクシデントに心を奪われて忘れていたバレエオタク精神を、 リスにひまわりの種をやっているうちに思い出して――って、やっぱり「リス園」の存在は 意味があったのかも?

まあそれはともかく。 コンクール会場に戻って本選を見学したのは、うさぎにとって有意義でした。
なぜかというと、「多かれ少なかれ、誰でもみなあがるんだ」ということに気づいたから。

予選のとき、キレのある素晴らしい踊りで他を圧倒していた子も、 本選は予選ほどの出来栄えではありませんでした。 流れるように音楽にのっていた予選に比べ、本選ではほんのすこし動きが固かった。 それでも、他の子を大きく引き離していたことに変わりはなく、 その子が踊り終えると、会場中が観客のつくためいきでザワザワしました。 おそらく女子の中ではこの子が一位だと思う。 ちょっとやそっとあがっても、 結果には響かないほどの圧倒的な実力の差というのがあるんですねえ。

そして、逆もまた真なり。 あがったから発揮できないような実力は、所詮その程度と考えることもできる。 あがっていても発揮できるものだけを"実力"と呼び、 あがったら"できない"ことは、"実力"のうちに入らないってことにしたらどうだろう。 つまり、"あがること"を折り込み済みにして考える。そしたらすっきりするんじゃないか。

また、「本番に強い」とか「弱い」という感覚も、"あがる・あがらない"とは案外 関係がないかもしれない。 実のところは、"どれくらいの実力に対して、どれくらいのことに挑戦するか" というバランスの問題なのではないかしら。

たとえば、うさぎは自分では「本番に強い」と思っているけれど、 それは単に、自分の実力の範囲内のことにしか挑戦したことがないから そう思えるだけかもしれない。
よく思い出してみると、誰かの結婚式でスピーチをするとき、 ホント言うと、足がガタガタ震えるもの。 それでもなんとかやり通せるのは、スピーチならわりと得意だからかもしれない。

高校のとき合唱祭でピアノの伴奏を引き受けたときには、 まるで指が自分のじゃないみたいに動かなくなった。
おまけに基本のドの場所が分からなくなって、 最初の一小節、1オクターブ間違えて弾いたんだっけ。
「どうしてこんな難しい伴奏を引き受けちゃったの!」ってピアノの先生を呆れさせる ほど実力不相応な曲だったから、あがってしまったら最後、どうにもならなかったんだと思う。 あがったから失敗したんじゃなく、単にピアノの実力が足りなかっただけなのよ。

今日のネネだって、あがってピルエット2回転がきれいに決まらなかったのは、 所詮、その程度の実力と考えればいいのかも。 "もっとうまく踊れるはず"という方が幻想なのかもしれない。

そして反面、こうも考えられる。
バレエ界の明日を担うキラ星たちに囲まれてあがり、 それでも足がすくんで動けなくなったりせず、 ともかく最後まで踊りとおしたんだもの、それはそれですごいことなんじゃないか、って。

いづれにせよ、練習のときの出来ではなく、 今回の本番での出来が本当の実力だと認めることが大事なのではないかと思ったの。
そりゃあ"もっと踊れるはず"と、本人も周りも思いたいところだけれど、 それじゃあいつまでも、"あがる"ことに振り回されっぱなし。 「あがって当たり前、あがらなかったら超ラッキー」くらいに考えて、 ここはやはり、ともかく現実を直視すべきなのではないかしら、と。

そして実力を認識したあとはもちろん、 その実力を理想に近づけるべく、ひたすら努力するしかない。 "あがらない方法"を探すなんていう雲を掴むような話より、日々努力する方が、 道が遠くみえたとしても、よほど地道で簡単なような気がするもの。

あるいは。
まず理想の方を一旦、実力相応レベルまで下げてみたらどうだろう。
たとえどんなにあがっても、失敗の程度の知れている実力の範囲内のものに、 もういちど立ちかえってみる。 そんな経験が、或いは今のネネにはいちばん大事かもしれない。

‥なんてね。あれこれ考えて、家路の道すがら、ネネに話したら、

「もう、何も言わずにママは黙ってみてりゃいいの!
とにかくママはうるさすぎ!」

ですって。――あらま、それは失礼しましたね。