車がエンパイアに到着すると、スタッフが3人ばかり、ばらばらと走り寄ってきた。
一人は車のドアを開け、恭しく頭を下げる。
あとの2人は巨大な金の鳥かごを引きよせ、それにうさぎたちの荷物を積み込んだ。
「グダフタヌーン、マム」
車のドアを開けたスタッフが言う。
「グダフタヌーン」
うさぎはタクシーの清算を済ませると、にっこり微笑み、
クイーンズイングリッシュを気取って挨拶を返した。
まるで貴婦人にでもなったような気分。
スタッフに導かれるまま、ロビーへ。
ああ、優雅な歩き方をもっと家で練習してくるんだった――そう思いつつ、
精一杯背筋を伸ばし、膝を伸ばしながら玄関の扉へと歩み寄ると、
ドアの両脇に控えた二人のドアマンが、扉を開いた。
金のブレードを施した金ボタンの黒い制服、ベルベットの丸い帽子。
そうした装いのドアマンが誘うロビーの中は、まさしくアラビアンナイトの世界だった。
色石で細かいモザイクをほどこしたすべすべの床、壁にかかった天井までの大きな絵画、
金色の枠に朱子を張った椅子、磨き上げられた鏡とガラス‥。
フロントに近づくと、黒いシャツを着た若い日本人男性が近づいてきた。
「TTAジャパンの古屋です」と右手を差し出す。
TTAジャパンというのはブルネイ専門の旅行会社である。
ブルネイ大使館に紹介されたこの会社を通じてうさぎはエンパイアの予約を取った。
古屋さんはその現地スタッフ。
今日はさだめしチェックインの手伝いがてら、御用聞きにやってきたのだろう。
でもどうして笑わないの? 握手をするときは笑うもんだ、そうでしょ?
まあいいや。
とにかくお言葉に甘えてチェックインを手伝ってもらい、
王宮へ行く方法について相談に乗ってもらうことにした。すると、
「もしよろしければ、わたしが王宮まで連れて行ってさしあげますが」というので、
「まあ、それは好都合だわ。‥ちなみにお値段はいかほど?」とうさぎは尋ねた。
すると古屋さんは、哲学的な命題でも突きつけられたかのように、 首をひねって難しい顔をし、天井を見つめて考え始めた。
‥あのー、そんなに難しいことを尋ねたつもりは――。
結局彼がはじき出した答えは「80ドル」だった。
きりんとうさぎは顔を見合わせ、一瞬で答えを決めた。
「ぜひお願いしよう」と。
だって、80ドルならさっきのタクシーの60ドルとそう変わらない。
日本人ガイドつきでこの価格は安いと踏んだのだ。
首尾よく注文を取ると、古屋さんは1時15分にまた来るといって帰っていった。
エンパイアの中心的建物アトリウムは傾斜地に立っており、
ここロビー階はその5階にあった。
アトリウムは巨大な温室といった感じの建物で、
1階から7、8階分の高さまで吹き抜けになっており、
どっしりとした4本の柱が
この巨大な空間の上に乗った大屋根を支えている。
その明るさ、その広さ、その高さ!
屋内でありながら、こんなにも解放感のある場所を、うさぎは他に知らない。 現実離れしたこの光景に、うさぎはどうリアクションしてよいものやら分からず、 ヒステリックな笑いと涙が同時に込み上げてきた。
アトリウムの左右には宿泊棟がそれぞれあり、渡り廊下で繋がれていた。
広くて長い渡り廊下を渡り、金ぴかのドアのエレベータで2階ほど下に降り、
更に廊下を歩いた先に、うさぎたちの部屋はあるらしい。
うさぎは、ホールに置かれたネコ足の椅子のアームをひとなでし、
フロアの隅に置かれたフラワーアレンジメントに触れて生花であることを確認し、
廊下の大きな窓を彩る青緑色のバリッとしたカーテン地の感触を指で確かめたりと、
よそ見をしいしい部屋へと向った。
どうしてたかが宿泊棟の廊下が、こんなにも広く、高いの?
どうしてたかがエレベータホールが、こんなにも明るいの?
どうしてどこからどこまで、こうも贅沢なの?!
部屋の前につくと、そのドアの大きさと重さにまた驚く。
更に、ドアを開けると、
これまた映画マイフェアレディに出てくるような部屋が待っていた。
高い天井、ゆったりとしたその広さ、
天井周りのケーシング、ベッドの上のふかふかのフェザーケット、フェザーピロー。
広々とした洗面室はなんと、床から壁から、天然大理石張りだ。
バルコニーの正面には青い海!
うさぎの憧れていたものが、ここに全てそろっていた。
だけど、部屋にうっとりしているヒマはない。
一時間で古屋さんがまた迎えに来るのだから。
うさぎたちはたっぷりとした収納にとりあえず適当に物を収め、着替えをした。
ネネとチャアにはゆかたを着せ付けて。