部屋で出かける準備を整えてロビーへ戻ると、ちょうど古屋さんもやってきたところだった。
彼は、ネネとチャアのゆかた姿を目にすると、みるみるうちに顔をほころばせた。
あら、なーんだ、ちゃんと笑えるんじゃないの。
笑った顔の方がずっと素敵。
さっきは気難しい顔の哲学青年だった古屋さんは、 これを機会に‥なのかどうか、弁舌爽やかな快活ガイドに変身した。
◆◆◆
ブルネイの王宮は、かのバチカンをも凌ぎ、世界最大であるという。 長さ525メートル、幅228メートル、部屋数1788室。 それを守るのは、1000人の屈強なグルカ兵たち。
「グルカ兵」とはその昔、 その比類なき勇猛果敢さと忠誠心を買われ、大英帝国の守りとして要衝に配備された ネパール人の傭兵たちのことである。 この呼称をガイドブックで見たときには、 「この21世紀にあって、まだそう呼ばれる人々がいたのか!」と驚き、 歴史の教科書の中に迷い込んだような気分になったものだ。
だから、王宮に到着すると、うさぎはまずグルカ兵の姿を探した。 うさぎの想像では、彼らは迷彩色の軍服を身に纏い、弾薬を両肩にかけ、銃を構えたまま、 周囲に鋭い視線を放っているはずであった。
ところが実際には、そんなモノモノしい兵隊さんたちの姿はどこにもなかった。 歴史の教科書というより、ディズニーランドの正門付近に限りなく近いその雰囲気に、 うさぎはちょっと拍子抜け。 ディズニーランドと違っているのは、人々の容姿と服装で、 褐色の肌と大きな瞳を持った人々が、色とりどりのヴェールと華やかな色の民族衣装に 身を包み、夏祭りの縁日さながらに、ワイワイとはしゃいでいる。
門から宮殿までは緩やかな坂。 正門付近からは宮殿が見えなかったし、シャトルバスも出ていたので、 これはちょっと距離があるかなとは思ったが、歩いて登ることにした。 幸い今日は花曇り。赤道直下の昼間とあって、気温は高いが、日差しはさほど強くない。
歩いて登る人は少なくなく、色とりどりのスカーフが一緒に坂を登っていった。 マレーの民族衣装はどれもとても色鮮やか。 女性は腰までかくれるくらいの長さの上着と、くるぶしまである長いスカートを履いている。 たいていそれらは共布でできており、華やかな柄ものの柔らかな生地で作られている。 頭には、スカーフを被り、ラインストーンのついたブローチやピンで髪に留めつけている。
どこの国にも、おしゃれな人とそうでない人がいるもので、
この華やかな民族衣装の一群にも、どことなくやぼったい人もいれば、
頭の先から足の爪の先まで計算しつくされたお洒落を楽しんでいる人もいた。
最も感心したのは、
可憐な花をちりばめたクリーム色の正絹の縫い目に金糸入りの紺のブレードを施し、
手刺繍の入った同じ色のスカーフを、凝った細工のピンで留めつけていた人。
どちらかというとお年を召した方の方がオシャレで、
しなの良いものを着ているような気がしたのはたまたまだろうか。
一方、男性の方も女性同様、ゆったりとした上着と共布のズボンを履き、
腰にどんすを巻いていた。
柄はないものの、男性の服も色鮮やかで、
初老の男性がきれいな薄ピンクや鮮やかなオレンジを着ていたりする。
みな一様に、黒いビロードでつくった楕円形の帽子を頭の上に乗せている。
エンパイアのドアマンが被っていたのと同じタイプの帽子である。
働き盛りの男性はシャツに普通のズボンといったいでたちの人も多いが、
老人と子供はおしなべてマレーの民族衣装姿で、
異邦人であるうさぎたちの目を楽しませてくれた。
また、こちらがマレーの民族衣装を珍しがれば、 向こうは日本の着物が珍らしいらしく、 周りの人はゆかた姿のネネやチャアをチラチラ見ていった。 小さな子供は無遠慮に後ろを振り返ってしげしげと見る。 ある一群の若者の一人は「アリガト!」と声を掛けてきた。 おそらく彼の知っている唯一の日本語なのだろう。
10分ほど歩いただろうか。宮殿にようやくたどりついた。 宮殿の建物は、お城のようでもなく、モスクのようでもなく、 なんとなく公民館のようだった。 エンパイアのような華やかさや豪華さはない。 大きいけれど、さして装飾のない、ごく普通の建物だ。
王宮の入り口には、民族衣装で正装した十数人ほどの受付の男性がずらりと並んでいた。
けれど、そこに立ち寄る人はあまりおらず、
うさぎたちを含めた大半の人々は、名前を記帳するでもなく、建物の中へと入っていった。
男女別の入り口には空港で見るのと同じセキュリティチェックの枠が設けられ、
係員が一人一人チェックしていた。
まあ当然よね。見知らぬ客を王宮に招きいれるのだから。
別なのは入り口だけで、中はまた男女一緒だった。
明るい外から来たせいだろうか、建物の中は薄暗く感じられる。
ビュッフェコーナーのアーチをくぐると、
屋台のようにブースが10ほど並んでおり、それぞれに別の料理が置いてあった。
入り口で大きな皿を各自もらい、それを持って通路を進むと、
各ブースごとにいる係りの人が皿に料理を取り分けてくれた。
長粒米の米飯や、野菜や肉の煮物、スパゲッティやコロッケのような洋風料理など。
比較的庶民的な感じのする料理。
それを、これまた庶民的な雰囲気の係員が装ってくれる。
黙っているとたくさん盛られてしまい、大きな皿はたちまち料理で埋まってしまった。
最後の方は、「少しでいいです」と言ってまわったものの、
それでも皿は山盛りてんこ盛り。
料理の上にまた別の料理を載せられてしまい、
何がなにやら分からないぐちゃぐちゃ状態になってしまった。
ビュッフェコーナーを抜け、ものすごい人の数でガヤガヤしている大広間に出ると、
フォークとスプーン、それに紙ナプキンが置いてあった。
が、これがまたすごい。
おびただしい数のカトラリーが、濡れたまま無造作に容器に投げ込まれているのだ。
あっけにとられていると、係りの人が、
「そこのナプキンで自分で拭いて持っていって」と言った。
周りの人の様子を伺っていると、なるほど、皆そうしている。
それでうさぎたちも紙ナプキンで自分たちの分を拭き始めた。
大広間は、色とりどりの民族衣装を着たお客と
食事の終わった皿をかたずける係員とで、混み合っていた。
注意して歩かないことには、人にぶつかって皿を落としてしまいそう。
フロアのところどころに大きな丸テーブルがあり、そこに皿を置いての立食形式なのだが、
子ども連れの人々は、隅の方の地べたに座り込んで食べている。
脇の方に少しばかりベンチが置いてあったので、
うさぎたちはそこに座って食べることにした。
人の話すガヤガヤ声だけでも充分賑やかなのに、
中庭に設えられたばかでかいBosseのスピーカーが大音響でロックをがなりたてている。
まるでバーゲン初日のような賑やかさである。
中庭の周りにはでっかい扇風機がずらりと並べられ、
屋内に向かって風を送ってくれている。
中庭の向こう側を見やれば、そこにもものすごい数の人たちがいて、
びっしりと並んだ椅子にこしかけていた。
どうやら、王族謁見の順番を待つ人たちらしい。
食事が終わったら、うさぎたちもあの椅子に座って順番を待つことになるのだろう。
さて、ビュッフェでもらってきた料理は、マレー料理にしては辛いものが少なかった。 皿の上で料理が混ざって見た目はあまり良くないけれど、味は悪くない。 とは言うものの、エスニックの苦手な子どもたちときりんは、ほとんど口をつけなかった。 唯一喜んで食べたのが、デザート用の小さなケーキ。 ネネ曰く、「これは日本のと変わらなくて美味しい!」なのですと。