【 百聞と一見 】百聞は一見にしかず ということわざがある。
人の話を百回聞かなくては分からないことでも、自分の目見れば、一度ですむ という意味だ。数式に表すならば、このことわざの意味は、「百聞 = 一見」である。 けれどこのことわざ、その意味を微妙に取り違えている人が多い。
百回聞くより一回見るほうが、よく分かる というような意味に。つまり、「百聞 < 一見」だと思っているのである。 そして、海外旅行によく行く人や、海外生活の経験がある人、 つまり海外に関して少なくとも"一見"がある人たちは、 特にそう信じたがる傾向がある気がする。 一目でも見れば鬼に金棒、見たことのない人には何も言わせないぞ、みたいな。
けれど、そういうのを、うさぎは勝手に"海外一見至上主義"と呼び、ちょっと嫌っている。
こういう状態を指して、もし誰かに、 でも、じゃあ"一見"には何の価値もないと思っているか、 海外旅行に行くことには何の意義も見出してはいないか、というと、そんなことはない。
たとえば。
うさぎも、オーストラリアに行くまでは、コアラもカンガルーも、
同じようにオーストラリアに存在するんだと、バクゼンと思っていた。
でも、実際に見て分かった。 こういうことが一度イメージとしてインプットされると、他の知識がそれにくっついてくる。 例えば、動物園でコアラを抱くことすら禁止している州があるというのが、 断片的な知識としてではなく、なんとなく立体的に理解できてくる。 また、オーストラリアの国道には「カンガルー飛び出しに注意」という立て札がある、 という雰囲気も何となく想像しやすい。 オーストラリアについては何も知らずに行ったうさぎであったが、 "一見"をきっかけとして"百聞"の可能性が広がった。 うさぎのオーストラリア旅行は、まさに"一見"と言うにふさわしい短い旅であったけれど、 その"一見"が「お見合い」の役割を果したわけだ。ことわざ風に言うならば、 一見は百聞の母
というところだろうか。 2002年10月5日 うさぎ |
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