Essay  うさぎの旅ヒント

【 百聞と一見 】

百聞は一見にしかず

ということわざがある。

人の話を百回聞かなくては分からないことでも、自分の目見れば、一度ですむ
人の話を百回聞くより、自分の目で一回見るほうが早い

という意味だ。数式に表すならば、このことわざの意味は、「百聞 = 一見」である。

けれどこのことわざ、その意味を微妙に取り違えている人が多い。

百回聞くより一回見るほうが、よく分かる
"聞くこと"は"見ること"には敵わない

というような意味に。つまり、「百聞 < 一見」だと思っているのである。

そして、海外旅行によく行く人や、海外生活の経験がある人、 つまり海外に関して少なくとも"一見"がある人たちは、 特にそう信じたがる傾向がある気がする。 一目でも見れば鬼に金棒、見たことのない人には何も言わせないぞ、みたいな。

けれど、そういうのを、うさぎは勝手に"海外一見至上主義"と呼び、ちょっと嫌っている。
なんでかって言うと。
うさぎはかつてものすごい"イギリスかぶれ"で、 英国滞在記と名の付くものは、かたっぱしから読んだ。 好きな小説家はディケンズとクリスティ、 大学ではイギリス史を専攻し、それなりに勉強した。 なのに、どういうわけか実際には一度もイギリスに行ったことがない、 まさに"百聞はあるが一見はない"状態だから。

こういう状態を指して、もし誰かに、
「アンタ、イギリスに実際に行ったことないんでしょ? じゃ、そんなの、イギリスを知ってるうちには入らないわね」なんて言われたら、 きっと、かなり悔しいんじゃないかと思う。 うさぎとすれば、ロンドン在住○十年なんていう人には敵わなくても、 「何度かイギリスを旅行してます」くらいの人には負けない、と思っていたいのだ。

でも、じゃあ"一見"には何の価値もないと思っているか、 海外旅行に行くことには何の意義も見出してはいないか、というと、そんなことはない。

たとえば。
オーストラリアにコアラやカンガルーがいるってことは、子供でも知っている。
でも、どんな感じで存在しているのかは、あんがい知られていない。

うさぎも、オーストラリアに行くまでは、コアラもカンガルーも、 同じようにオーストラリアに存在するんだと、バクゼンと思っていた。 でも、実際に見て分かった。
コアラは数が少なくて、 オーストラリアでもかなり力を入れて保護されている動物なのだと。
で、カンガルーの方は、ほとんど日本の犬やネコのような感覚で、 わりと普通に存在している動物なのだと。

こういうことが一度イメージとしてインプットされると、他の知識がそれにくっついてくる。 例えば、動物園でコアラを抱くことすら禁止している州があるというのが、 断片的な知識としてではなく、なんとなく立体的に理解できてくる。 また、オーストラリアの国道には「カンガルー飛び出しに注意」という立て札がある、 という雰囲気も何となく想像しやすい。

オーストラリアについては何も知らずに行ったうさぎであったが、 "一見"をきっかけとして"百聞"の可能性が広がった。 うさぎのオーストラリア旅行は、まさに"一見"と言うにふさわしい短い旅であったけれど、 その"一見"が「お見合い」の役割を果したわけだ。ことわざ風に言うならば、

一見は百聞の母

というところだろうか。
うさぎが思うに、たぶん、海外旅行に行く最大の意義ってコレだと思う。 たかだか一週間旅行に行って何が分かるわけでもない。 でも、これから分かっていくためのファーストステップなのだ。そう思っている。

2002年10月5日 うさぎ

<<<   ――   u-032   ――   >>>
NEW    HOME