Hongkong  香港

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【 新しい傘を持って 】

傘

春休みのせいか、横浜駅のホームは、 スーツケースやキャリーケースを携えた人々が溢れていた。 その人ごみの中に、菜々子ちゃんたちの姿を探す。 出発日の今日、ここで待ち合わせて、一緒に在来線で空港へ向かう計画なのだ。

在来線の成田空港直通列車「エアポート成田」にさきがけ、 成田エクスプレスが滑るように入ってきて、また滑るように出て行った。 するとそれまで混んでいたホームが急に空いて、少し離れたところで 手を振る菜々子ちゃんの姿が見えた。
「菜々子ちゃん!」キャリーケースを引きずりながら駆け寄るチャアとうさぎ。 菜々子ちゃんの側には、娘のくるみちゃんと、少し大きめのキャリーケースが二つ、 そして大きな黒い傘があった。
「ふふ、ちゃんと持ってきたわね〜、コウモリ傘!」とうさぎが言うと、 菜々子ちゃんもうさぎの傘を見て言った。
「持ってきましたとも! 大きい方がいいと思って夫のを借りてきたわ。 うさぎちゃんの傘は‥、あら、それね。 それがお母様が送ってくださったという新しい傘なのね。素敵だわ」

そう、うさぎの傘は新しい。 先日、実家の母が送ってくれた新品の傘だ。まだ一度も使ったことのない。 昨晩ネットで香港の天気予報を調べたところ、 ここ数日の天気は雨がちだという予報が出ていたので、 折りたたみではない長い傘を持ってきた。 これなら大ぶりなので、チャアと2人で差しても濡れないだろう。

列車に乗り込むと、菜々子ちゃんは座席の脇のグリップに傘の柄をかけた。
「傘、大丈夫かしら。置き忘れないようにしなくちゃね」とうさぎ。 「お互い自分の傘を手にするときには、 かならず相手にも"傘持った?"って訊くことにしない?」 「そうね。わかったわ」
日本を出る前に傘をどこかに置き忘れてきたんじゃあ話にならない。 キャリーケースにバッグに子供、その上に長い傘を持っているのはまったく気苦労が多い。 でも何とかこの傘を香港まで運ばなくては。

隣りの駅で1つボックスが空いた。 その席を確保して4人で向かい合わせに腰を落ち着けると、 以前一度会ったことのあるきりのくるみちゃんとチャアは早くもうちとけあい、 2人で「旅の指さし会話帳」を眺めはじめた。 菜々子ちゃんとうさぎももちろん、話題は尽きない。 香港での計画やら、つもりつもった近況報告やら、誰かの噂話やら。 ときどき傘のほうを見やりながら、話に花を咲かせた。

くるみちゃんが「ここどこ?」と尋ねたのは、千葉を過ぎたあたりで、 次に尋ねたときには、成田を過ぎていた。 成田へと向かう2時間がこんなに短く感じられたのは初めてだ。
「傘もちゃんと持ったわね」 菜々子ちゃんとうさぎは、お互いに相手の荷物の数を 目で数えつつ、子供たちをせかしながら成田空港駅で列車を降りた。

こうまでして、二人して長い傘を持ってきたのにはわけがある。
香港がもし連日雨でもがっかりしないように。 ひと雨来たら、大きな傘をぱっと開いて、4人で颯爽と香港の街を歩けるように。 そんな気持ちをこめて、持ってきたのだ。

だけどこの傘の、気を遣わせることといったら‥! 日本を出る前に、早くもうさぎは傘を持ってきたことを後悔しはじめていた。 売店、トイレ、チェックインカウンター、セキュリティチェック、搭乗ゲート‥。 電車の中以外にも、傘を忘れそうな場所がなんとたくさんあることか‥! バッグとキャリーケースと子供と傘。更に、子供のキャリーケースと子供のバッグ。 二本しかない腕、一つしかない頭に、6つの荷物はいくらなんでも多すぎる。 どこかに置き忘れるだけでなく、うっかり傘を振り回して誰かに当てるとか、 そういった不測の事態も考えられる。

そしてついに、うさぎはやってしまった。 搭乗口から航空機へと向かったバスを降りるときに、傘をドアに引っ掛けてしまったのだ。

新しい傘は、見事に柄が曲がってしまった。 もう、気分は最悪! 一体何のために新しい傘をここまで持ってきたのか。 何のために‥。

飛行機に乗り込むと、うさぎたちの座席は、ジャンボジェットのまんなか4座席で、 くるみちゃん、チャア、菜々子ちゃん、うさぎの順に座った。 本当なら、子供二人を真ん中にして、親たちが通路側に座るのだろうが、 うさぎとすれば、菜々子ちゃんと存分におしゃべりできる香港到着までの この4、5時間というチャンスを、子供たちに邪魔されたくない。 子供たちには「飲み物の注文くらい、自分でできるわよね?」、 菜々子ちゃんには「こういうときこそ子供の独立心が育つ良いチャンスよね」 とかなんとかいいつつ、独断でみんなの席を決めてしまった。

こうして過ごした香港への数時間は、これまたこんなに短く感じたことはない、 至福の数時間だった。 楽しい会話の合い間に、1度2度、柄の曲がった傘のことを思い出して暗くなると、 菜々子ちゃんが慰めてくれた。 「大丈夫。ホテルのドアに挟んでガツンと逆に曲げればきっと直るわよ」と。
その言葉にうさぎは笑った。見目麗しく上品な菜々子ちゃんのセリフとも思えない。

◆◆◆

香港の空港に到着すると、うさぎは柄の曲がった傘を持って飛行機を降りた。 小広くなったスペースで、そっと傘を広げてみる。 ‥開くには開いた。でも、留め金がかからない。

「あーあ‥」 ため息をつくうさぎの脇で、菜々子ちゃんがそっと言った。
「それ‥、試しにここで、逆に曲げてみたらどうかしら? ドアに挟まなくても、直るかもしれないわ」
「ええっ? さすがにそれは無理よ。前にも傘の柄が曲がっちゃったことがあって‥」 そう言いつつ、柄に力をかけてみるうさぎ。「‥あら、直ったわ」

なんと傘は、ほんの少し逆に力をかけてみただけで、あっけなく直った。 まだ少しは曲がっているけれど、ほとんど目立たない。 留め金も掛かるようになった。

「案外この傘、安物かも‥」そういいつつも、うさぎは俄かにご機嫌になった。 動く歩道を行く足取りも軽い。
「うそみたい! うそみたぁい〜♪」 何遍も歌うようにそういったあと、 うさぎは後ろにいる菜々子ちゃんを振り返って元気よく言った。

「なんだか全てが上手くいくような気がする! そんな気がするわ!」

と。

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