香港に到着した日の翌朝、カーテンを開けて窓の外を見ると、あたりは薄暗かった。 時刻はもう7時すぎ。 決して夜が明けきれていないわけではない。 厚い雲が、太陽を覆い隠してしまっているのだ。
窓のはるか下の方を見下ろし、雨が降っているかどうかをチェックする。 ――どうやら降ってはいないようだ。 道行く人が誰も傘をさしていない。
ここはツェンワン。 中心街から地下鉄で20分ほどのところで、 いわゆる"新界(ニューテリトリー)"といわれる香港の郊外にある町の一つである。
郊外といっても、ほのぼのとしたベッドタウンを想像してはいけない。 ツェンワンの人口は100万近く。 18階のホテルの部屋から仰ぎ見る遠くの山々は、霧ばかりか、 あっちにこっちににょっきり生えた高層ビルによっても遮られている。 地上30階建てのこのホテルを、その高層さにおいて特異な存在としない郊外。 さながら未来都市のような郊外だ。 限りなくモノトーンに近いその景色は、まるで昔のSF映画を見ているよう。
昨晩寝たのが遅かったというのに、なぜだか目が冴えてしまったうさぎたちは ベッドから起き上がって服に着替え、 パンダ印の箱に入ったハブラシで歯を磨くと、部屋の外に出た。 菜々子ちゃんたちとの待ち合わせまでまだ1時間近くもある。 ホテルの近くにあるというマクドナルドでも下見に行くとしよう。
エレベータで18階の部屋から3階のロビーへ。 扉が開いた途端、どわっという騒がしさの渦中に投げ込まれた。 広いロビーを、おびただしい数の人々が埋め尽くし、せわしない中国語で喋っている。 フロント前は長蛇の列。 ほんの数名のスタッフが、そのチェックアウトを忙しそうに執り行っている。
ここパンダホテル、――中国名で悦來酒店――は1000室を擁する大きなホテルで、 中国本土からのお客が多いと聞いている。 激安ツアーに使われるホテルなんてどんなホテルかと思っていたけれど、 ロビー周りなどはスケールメリットを生かし、 どうしてどうしてなかなか豪華な雰囲気である。
ロビーの喧騒を避けるようにうさぎたちは階段を下り、 今にも泣き出しそうな色の空の下に出た。 「エントランスを出て左に歩くとすぐにマクドナルドがあるよ」 と昨晩教えてくれたのはシャウさんである。
マクドナルドは道の反対側にすぐ見つかった。 ダダダダダ‥と、道路工事のような音をせわしなく立て 歩行者を横断歩道の上から追い立てる信号で車道を渡りきると、 二階建てバスが二台連なって走ってきた。 縦が長いせいか、やけに横幅が細くみえる。 今にも横倒しになりそう。 歩道にいてもなんだか不安だ。 うさぎはチャアを歩道のもっと内側に引き寄せた。
マクドナルドのメニューをしばしチェック。 その入り口付近には、元気なマクドナルド色の置き傘が置いてあった。 曰く、"At Your Service, With Pleasure." 「お役に立てれば幸いです」というところだろうか。 だけど、こんなお天気の日に、傘を持たずに外へ出る人なんているのかな。 マクドナルドを出てホテルの方に向き直ると、 長細い壁面にパンダが描かれた薄べったいパンダホテルの建物が どんよりとふてくされた空をバックに無表情にそびえたっていた。
◆◆◆
一旦部屋に戻り、もういちどロビーへ降りてきたときには、民族の大移動が始まっていた。 ツアーガイドらしき人が皆に何か一声かけて歩き出すと、 その後から彼について大団体がうねるように階段を下りていった。 ロビーには静寂が戻り、フロントの前はガラガラ。 うさぎはこれ幸いとセーフティボックスに貴重品を預け、 フロアの隅にどでんと居座っているばかでかいヌイグルミパンダの前で記念撮影をした。
そうこうするうち、菜々子ちゃんたちもやってきたので、 先ほど下見をしたマクドナルドで朝食を済ませ、地下鉄ツェンワン駅方面へと向かった。 パンダホテルのロビー階から駅へと続く長い長い歩道橋を渡って。
こんなどんよりした曇空の下でも、 二人のお子様たちは車のこないこの道を、楽しそうに歩いてゆく。 エメラルドの都へと続く黄色いマンチキンロードを行くドロシー・ゲイルのように。 いや実際、この歩道橋の欄干は鮮やかな黄色なのだ。 曇空に負けないくらい鮮やかな。
親たちのほうも、ときどき小走りになって子供たちを追いつつ、意気揚揚と歩いた。 長い傘を腕にかけて。
一般道路を下に見下ろす黄色い欄干の歩道橋は、ホテルを起点とし、駅を終点としていた。 一車のビュンビュン通る下界に下りる必要は一度たりともなく、 この道に沿って歩いてゆけば、駅にたどり着くのだった。 ツェンワンにおいて、大ホテル・悦來酒店は特別な存在なのかもしれない。