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【 オクトパス(八達通) 】

オクトパス

「アッ!!」
菜々子ちゃんと太子駅で別れたときのこと。 駅の階段を半分降りたところで、くるみちゃんが叫んだ。
「お財布、お母さんが持ったままだ!」

「お金ならおばちゃんが持ってるから大丈夫よ」とうさぎは言った。
「でも、お財布の中には"オクトパス"が入っているんです!」 くるみちゃんは悲壮な顔でうさぎに訴えた。
「‥エッ!!」 うさぎは一瞬ドキッとしたが、次の瞬間、思いなおして言った。
「‥まあいいわ。切符を買えば」
けれども、かわいそうなくらいしょんぼりしたくるみちゃんの顔を見て、もう一度思い直し、 今下ったばかりの階段を脱兎のごとく駆け上がって通りに出、大声で呼ばわった。
「菜々子ちゃ〜〜〜〜ん!!」

けれども菜々子ちゃんはもう行ってしまったらしい。その姿は見つからなかった。 しかたなく、うさぎは諦めて、もう一度くるみちゃん、そして自分に言い聞かせるように言った。
「まあいいわ。切符を買えばいいだけの話よ。そうでしょう?」

◆◆◆

オクトパスというのは、乗り物に乗るための、単なるプリペイドカードである。 大きさも使い方もちょうどJRの「ビューカード」のようなもので、ただかざすだけで、 運賃が計算されて残高が減り、改札を通リ抜けることができる。 使わなくなったら、残高をデポジット料込みで清算して返却してくれる仕組みも同じで、 それゆえ短期の滞在でも無駄を出すことなく使えるのでたいそう便利である。

しかも、これは子供用があるところが良かった。 昨日の朝このオクトパスを手にした子どもたちはもう、大喜び! きっとちょっぴり大人になったような気分、 或いは定期券を手にした気分だったのだろう。 ツェンワン駅の改札を通る人のほとんどはこのオクトパスを持っており、 財布ごとセンサーにかざす人、それどころか、大きなバッグごとセンサーにかざす人までいて、 子どもたちの目を丸くさせた。 そして、そういう人々の様子をじっくりみた子供たちは、 わざわざオクトパスをバッグにしまい、 自分たちも意気揚々とそれをセンサーにかざして得意げに改札を通り抜けたものだった。

それは確かに、子供たちにとって「便利さ」以上の意味を持っているようだった。 いや、子供たちのみならず、大人にとっても。 なぜって、オクトパスで乗れるのは地下鉄だけではなかったからだ。 昨日ビクトリアピークへ行ったときには、スターフェリーも二階建てバスもピークトラムも、 全部このオクトパスをかざして乗った。 それは本当は単なるプリペイドカードに過ぎないのだが、 いちどこれを手に入れてしまうと、あたかもどこへ行くにもフリーパスのようで、 香港の街を歩き回る自由を満喫させてくれた。

うさぎは子供たちにも言ったものだった。
「あなたがた、もし香港でママたちとはぐれるようなことがあっても、心配しないで。 オクトパスがあれば、地下鉄にだってバスにだって乗れる。 自分でホテルに帰ることができるんですからね」と。

ところが、今朝のこと。 ツェンワン駅の改札を抜けようとしたら、ピーッという警告音がして、子供たちだけ抜けられず、 おいてけぼりを食ってしまった。

実は昨日オクトパスを購入したばかりのときも、菜々子ちゃんだけ改札を抜けられず、慌てたものだった。 何度やっても通れないので、菜々子ちゃんは窓口に戻り、事情を説明した。 どうやら向こうの手違いで、料金分のチャージがちゃんとなされていなかったようだ。 改札に戻ってくると今度こそオクトパスは正常に動作し、菜々子ちゃんは無事改札を抜けられた。

そんな経験があったものだから、二度目の今朝は誰も慌てなかった。 ただ、大人たち二人が先に改札を抜けてしまったものだから、 子供たちだけで窓口に行って事情を説明しなければならないのが厄介であった。 ツェンワン駅は終点なので、改札が双方向から通れるようになっていない。 一度入ったら、金輪際出られないのだ。

「窓口で、"It doesn't work(これ動かないんですけど)"と言いなさい」 うさぎは子どもたちに言った。
子供たちは、「イト・ダズントウォーク、ダズントウォーク」と唱えながら窓口の方へと駈けて行き、 しばらくして戻ってきて言った。
「"ノーマネー"とか言われたー」と。

菜々子ちゃんとうさぎは顔を見合わせた。
「残高が足りないってことかしら。でも、そんなことってある? だってきのう70ドルも出して買ったのよ。 第一、大人用はまだ残っているのに、子供用だけ残金がなくなるだなんて。変よ」 それでもうさぎたちは、子供たちに50ドル札をそれぞれ渡し、 「じゃあ、そこにあるチャージ機で、チャージしてきなさい」と子供たちに言った。 この際、数百円程度の損得はどうでもよかったのだ。 それくらい、みなオクトパスが気に入っていた。

子供たちはまたパタパタとチャージ機まで駈けていき、操作しようとした。 でも結局分からなかったらしい、「使い方が分からない」といいながら戻ってきた。
「もう、しょうがないわねえ。じゃあその辺にいる人に尋ねなさい。 "How can I use it?(どうやって使うんですか?)"って」
「ハウ・ユー‥?」
「違う。"ハウ・キャナイ・ユーズィット"」
「ハウ・ユーキャ??」
菜々子ちゃんが笑って言った。 「もう、ダメねえ。しょうがないから、他の人が操作するのを脇で見ていなさい」
「うん、そうする」

子供たちはまたまた走っていき、となりで男の人が機械を操作するのを、無遠慮にしげしげと見つめた。 さぞかしその人は面食らったことだろう。 でもそのおかげでやり方が分かったらしい、子供たちが50ドルをチャージしてきたオクトパスは、 今度こそ、改札を通してくれた。

地下鉄の中で、菜々子ちゃんとうさぎは話し合った。 「それにしても変よねー。どうして子供用だけ残金がなくなっちゃったのかしら?」と。
「だいたいこれって信用できるのかしら。なんだか不安」
「確かに。でも、子供たちが同時に使えなくなったということは、同じように減っているということよね」

このナゾが解けたのは、ずいぶん経ってからだった。
「そうか! デポジット分があるからだ!」とうさぎは言った。 「大人用のオクトパスは150ドル、子供用のオクトパスは70ドルで大人の約半額。 運賃も大人の半額だから、大人とほぼ同じペースでなくなるはずと思ったけど、違うんだわ。 デポジット料は大人も子供も50ドルで、それを差し引くと、 子供用が運賃として使えるのは、たった20ドルしかないんだわ!」
「20ドルって、いくらぐらい?」
「えーと、1ドル15円として、300円くらい」
「ああ、それじゃすぐになくなるはずだわ。昨日あれだけいろんな乗り物に乗ったんだものね」

◆◆◆

「アッ!!」
二度目にくるみちゃんが叫んだのは、菜々子ちゃんと別れて3人で、 太子駅から4つ離れた尖沙咀駅に到着したときのことだった。
「切符がない!!」

「あらら、でもたぶんポケットかどこかに入っているんじゃない? よく探してごらん」
けれど、切符は見つからなかった。
「まあいいわ。窓口へ行って事情を話しましょう」

くるみちゃんはまたしてもしょんぼりしてしまった。
「ああ、バカだー、わたし。お母さんにあとで怒られるー」

けれども「すみません、子供が切符をなくしてしまったのですが」と改札内側の窓口で告げると、 「もう、しょうがないわね」というように手を振った女性係員が、代わりの切符をはい、と差し出した。

これには一同、感激した。
「あーよかったー、よかったー」とくるみちゃんは大喜び!
「香港の駅って親切だねー」とチャアも目を丸くしている。 「日本の駅だったら絶対お金取られるよ」
「そうねー、ほんとねー、よかったねー」とうさぎも相槌を打った。 でも本当はこれには、親切とかそういうことではない、何か本質的な違いを感じていた。

その本質的な違いというのが何か分かったのは、オクトパスと新しい切符で 改札を抜けたその瞬間だった。 そうか、改札の信頼性が日本とは違うのだ、と。

香港の改札は、日本の改札のようにアバウトではない。 日本の改札は開いているのが通常の状態で、何かイリーガルな状態を感知したときだけ閉じる。 だから切符なしで改札を抜けるのは簡単である。 切符を持つ誰かの後にぴったりくっついて入ればそれで済んでしまう。

けれど、香港の改札は閉じているのが通常の状態である。 日本では遊園地の入口などでよく見かける三ツ股状のバーが取り付けてあり、人はこれを押して入る。 この仕組みでは、切符を持たぬものが改札を抜けるのは、ほとんど不可能である。 だから逆に、香港では切符を途中でなくしても、その言い分が信用されやすいのだろう。

また、世の中には改札の扉なんてものがそもそも存在しないところもあり、 そういうところでは「切符拝見」の抜き打ち検査が頻繁にある。 キセルに科す罰金も高い。
でもおそらく香港では抜き打ち検査などやらないに違いない。 あの改札を見る限り、そんな必要があるとは思えない。 香港は、改札がきっちりしているからこそ、他方でおおらかになれるのだ。

改札をぬけると、それまで一時的に元気になっていたくるみちゃんがまた元気をなくした。
オクトパスを持っていないことを、また思い出してしまったようだ。
「切符がなくても通れたのはよかったけど、‥でもやっぱりお母さんに怒られるー」と。
「どうして?」
「だって、オクトパスを持っていなかったせいで、切符代が余分にかかっちゃったから」
「くるみちゃん、それは違うわよ」とうさぎは言った。 このへんで少し、彼女をオクトパスの呪縛から解放してやらねばなるまい。 「あのね、オクトパスは"定期"とか"一日乗り放題券"みたいなものとは違うのよ。 "テレフォンカード"や"イオカード"と同じ、プリペイドカードなの。 あとで払い戻しだってできるのよ。 だから、オクトパスを持っていなくて切符を買っても、全然ソンはしていないの」

「えっ、ほんと?!」 くるみちゃんはにわかに明るい顔つきになった。 「そうなんだー、ディズニーランドの"パスポート"みたいなものかと思ってたー。ああよかった!」
その明るい笑顔を見ながら、うさぎは思った。 オクトパスが呪縛にとらわれていたのはうさぎも同じだったな、と。 頭ではただのプリペイドだと分かっていても、気分的にはなんとなく"乗り放題"のように感じていたのだ。

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