「ママ、トイレ〜〜!」
とチャアが叫んだのは、尖沙咀駅の階段を上がり始めたときのことだった。
だが、駅にはトイレはないようだ。
「しょうがない。外で探しましょ」とうさぎは言って階段を上り続けた。
地下鉄の地上出口を出ると、歩道の先に「裕華國貨」と書かれた百貨店の看板が見えた。
「チャア、あそこだ! たぶんあそこならトイレがあるよ」とうさぎが言うと、
チャアは裕華百貨店目指して一目散に走り出した。
うさぎはくるみちゃんの手をひき、それを追った。
チャアは百貨店の入口で後ろを振り返ると、尋ねた。
「ママ、トイレどこ?!」
「分からない。二階かも?」
そううさぎがいい終わるが早いか、チャアはエスカレータを一段抜かしで駆け上がった。
百貨店の入口付近はチャイナドレス売り場で、くるみちゃんはすっかり色とりどりの商品に魅了されている。
曰く、「わたし、ここで待っていますから」。
「そういうわけにはいかないわ。ついてきて!」とウサギは言い、
くるみちゃんの腕を引っ張ってエスカレーターを上った。
けれども二階にもトイレはなかった。 仕方なく皆で一階に降り、店員に尋ねると、 「通りの向かい側のミラマーにありますよ」という返事が返ってきた。
そんなわけで、信号が変わるのをイライラを待ったのち、 横断歩道を渡って向かいの美麗華商場(ミラマー・ショッピング・センター)へ。 このえらく華やかな名前のファッションビルのエスカレータを、またトイレ探して駆け上がり、 売り場をぐるりと一巡り。 これまたなかなか見つからなかったため、うさぎはまたしても店員に尋ね、 細くて暗い廊下の奥にあることをようやくつきとめた。
さて、こうしていよいよ念願のトイレ到達まで聴牌(テンパイ)と相成った。
‥が、いざトイレの表示を目にすると、うさぎの胸の動悸は異様に高鳴った。
香港の街のトイレには、お掃除係のおばさんがいて、些細なことに高額なチップを請求するらしい、
とどこかで聞きかじっていたからだ。
一体高額なチップっていくらくらいなんだろう?
もし請求されたら、少しは払うとして、どれぐらいの額が落としどころだろう?
‥などと考え始めると、身がこわばる。
だから、トイレまでのその細くて長い廊下を歩く間に
トイレの掃除婦と見られるおばさんとすれ違ったときの安堵感といったらなかった。
「やった! ラッキー! トイレおばさんは留守だ!
これは手っ取り早く用を足し、おばさんが戻ってこないうちに引き上げるに限る!」
ところが。子どもと一緒だと、思いがけないことが起こるものである。
二つある個室に子どもたちが入ったまではよかったが、しばらくして何か小さなものが床に落ちる音がして、
個室から出てきたくるみちゃんがこう言った。
「帽子につけてたピンバッジのサックを落としちゃった‥」
うさぎは慌てて探しに個室に入り、狭い床の隅々まで探した。 でも見つからない。 隙間から他の場所に転がり出たとも考えられるので、外の洗面所付近も探してみたが、見つからない。 あと考えられるのは、もう一つの隣の個室だけだ。 けれどもそうこうするうち、チャアが出たあとのその隣の個室には、誰か他の人が入ってしまった。
うさぎは焦った。 こうしているうちにもチップおばさんが帰ってくるかもしれない。
ああ、多額のチップって一体‥?
お財布の中には小銭があるだろうか
そして恐怖の瞬間がついにやってきた。 トイレの入口の扉がギッと開いて、さっきすれ違った掃除のおばさんが帰ってきたのだった。 ああ万事休す‥。
おばさんはトイレに入ってくるなり、うさぎの顔を険しい顔で睨み、中国語で何か言った。 えっ、えっ?? 何だろう? いきなりチップの請求だろうか?! うさぎはギクリとした。
けれど、おばさんのジェスチャーをよく見ると、どうやら違うことを言っているようだ。
こっちに寄りなさい‥?
ドアが開くと‥
‥危ないから
‥どうやらそう言っているようだった。 うさぎがちょっと身を細めてドアの前から気持ち退くと、おばさんは「それでよし」と言うように ニッコリした。
中華系の人々の表情は、日本人よりもはっきりしている。 険しい表情と柔和な表情の落差は西洋人並である。 西洋人はもともと顔の作りが違うからあまり気にならないが、 日本人と同じような顔つきの中華系の人々にこれをやられると、衝撃が大きい。 が、ニッコリしたおばさんの顔はなんともチャーミングで、 もうチップのことなんか、気にならなくなってしまった。 もし請求されたら、素直に出せばいい。
と、そこに念願の個室がやっと空いた。 うさぎたちはその床を確かめたが、探し物が見つからなかったので逡巡した。 案の状、その様子を見たおばさんは怪訝そうな顔つきになり、 うさぎは英語で「探し物をしているのです」と言ってみた。 だが、通じないようだ。
そこで今度は、お得意の「旅の指さし会話帳」を取り出し、「おカネをなくした」という構文の、 「おカネ」にあたると思われる部分を手で隠して見せてみた。 すると、おばさんはその本を握り締め、その構文を見入ったまま、動かなくなってしまった。
うさぎは一体どうしたものやら分からず、「ンギンヂョー、ンギンヂョー(なくした、なくした)」と、 全く六声を無視したエセ広東語で繰り返しては、ピンバッジの先を指差してみた。 けれども、そもそもおばさんはうさぎなんぞ見ちゃいない。 「旅の指さし会話帳」を握り締め、それを注視したままだ。 どうやら、おばさんは字が読めないらしい。
一体この状況をどうして打破したものかと思っていたところに、ようやく助っ人が登場。 用を足しにやってきた女性が、「ンギンヂョー」を繰り返し、おばさんの注視する構文を指差すうさぎを見て、 英語で「どうしたの?」と言い、うさぎが説明すると、中国語でおばさんにそれを伝えてくれた。
これにて一件落着。 おばさんの顔には笑が戻り、彼女は「なら、心ゆくまで探せ」というジェスチャーをうさぎたちに示した。 チップを請求することもなく。
結局のところ、ピンバッジのサックは見つからなかったが、 それを諦めてトイレから引き上げたうさぎはなんともいい気分だった。 今の騒動を思うと可笑しくて、つい顔がにやけてしまう。 トイレに入る前の気の重さとは大違い。スキップしたくなる気分だった。
子どもと一緒だと、ちょっとしたハプニングがある。 けれど、ハプニングがあるからこそ、旅は楽しいのだ。