それは、その朝プリルキサン美術館に車で向かおうとしていたときのこと。 狭い路地の突き当たりにあるアラムジワの隣家の木戸が開いており、 その向こうに画板を持つ人の姿が車の窓から見えた。
「あ、画家だ」。うさぎの胸は高鳴った。 昨日から、一度画家に会いたいと思っていた。 アラムジワの部屋の中に飾られた、大きなバリ絵画を描くような画家に。
ウブド周辺はバリ絵画の盛えた土地で、時代ごとに様々な絵画スタイルが花開いたという。 現在でも様々な手法が受け継がれており、様々な流派がある。
日本でガイドブックに載っていたそれらの絵の写真を見ていた頃、 うさぎは、 くっきりとした色合いで花や鳥を写実的に描く 「プンゴセカン」というスタイルの絵が一番好きだと思っていた。
ところが、アラムジワのチェンドラワシスイーツに落ち着き、 部屋の中に飾ってある本物の絵画を見て回るうちに目が離せなくなったのは、 別の流派のものだった。 特に気に入ったのは、女の人が花々の中に立っている絵。 それに玄関の正面にも、人がたくさん描かれた大きな絵があった。 この二つはおおよそ同じ手法で描かれており、どこか東洋的な感じがした。 鮮やかなような、そうでないような、なんともいえない独特の色味、 繊細に描かれたその光と陰影。 それは明らかに、うさぎがいままでには見たことのない種類の絵だった。 どうしたらこんな色が出るのか、どうしたらこんなに繊細な立体感が出せるのか。 うさぎは、どんな手順で描いたらこんな絵が出来上がるのかが知りたくて、 絵にへばりつき、しげしげと眺めたものだった。
そういう経緯があったものだから、宿泊しているホテルの隣りが画家の家だと分かると、 うさぎの胸のドキドキは止まらなくなった。 あの画板の裏で描かれている絵は、どんな絵だろう? もしかしたら、部屋の絵と同じ流派のものかもしれない。 帰ってきたら必ずあの門の扉を叩くぞ、と心に決め、うさぎは美術館へと向かった。
美術館には絵がたくさん飾られていた。 けれども、さほど気に入った絵は見つからなかった。 部屋に飾られていた絵ほどに気に入ったものは。 うさぎはますます「帰ってきたらあの門の扉を叩くぞ」という意を深くした。
そして実際、
モンキーフォレストを抜け、徒歩でここニュークニン村に帰ってきたうさぎは、
それを実行に移した。
「こんにちは。こちらは画家の方のお宅ですか?
できましたら、絵を描いているところを拝見したいのですが」
そうお願いすると、応対に出てきた人は、
見知らぬ来訪者に向かってワンワン吠え立てる犬を退け、
庭に招き入れてくれた。
そこには二人の画家がいた。 木戸の陰からは一人しか見えなかったが、 もう一人、壁に立てかけた大きな絵に専念している人がいたのだ。 彼らは実に感じの良い笑顔で、 うさぎが画家という職業に抱いていた気難しいイメージを一瞬で払拭してみせた。
壁に立てかけられた大きな絵は、 水の張られたライステラスに遊ぶ白鷺を描いたものだった。 西洋的な写実性、東洋的な繊細さを併せ持つ、泣きたくなるくらい美しい絵だった。 すでにおおかた出来上がっているようで、 その画家は、 その絵にもう3ヶ月以上もかかっている、あと数週間で書きあがるであろうと話してくれた。
もう一方の画家が画板の上で描いていた幅一メートルほどの絵は、 その輪郭線がやっと描き入れられ、 その上から薄墨で丁寧に陰影をつけられている段階で、まだモノトーンであった。 画家は、この絵はこれから色を入れるのだと話してくれた。
うさぎは図らずも、自分の知りたかった絵の秘密を知って、興奮した。 つまり、彼らの描いていた絵はまさに、 うさぎを虜にしたあの部屋の絵と同じ流派の絵だったのである! どのようにして入れるのかと不思議だった繊細な陰影は、 絵の具で全体が彩色される以前に、薄墨で予めつけられたものだったのだ。 色を入れる前に影を先につけてしまう――そんなやり方は想像もしなかった。
彼らの絵は、うさぎが気に入った部屋の絵と流派が同じどころか、
もしかしたらこの方々が描いたのではないかと思うほど、タッチが似ていた。
そこでうさぎは尋ねた。
「わたし、隣りのアラムジワに泊っているんです。
チェンドラワシという名の部屋に。
もしや、あの部屋の絵はあなたがたが描いたものでは‥?」
すると、大きな絵を描いていた人がこう答えた。
「いかにも、あの部屋の玄関前に飾ってある大きな絵はわたしが描いたものですよ。
それ以外の絵も、みんなわたしが選んであそこに置いたものです」
ああやっぱり!
うさぎは感激した。思い切って木戸を叩いてよかった。
「部屋の中に、女性を描いたものが一枚ありました。
あれはヒンズーの女神か何かでしょうか」と問うと、
「ああ、それはサラスワティですよ。ほら、これと似たような絵でしょう?」
といって、画家は、傍らに置いてあった絵の覆いを外した。
そこにはやはり、優しい顔をした女性が睡蓮の花に囲まれて立っていた。
大きな絵の画家は言った。
「わたしたちはね、二人で展覧会を開くつもりなんです。
それで絵を描き溜めているところなんですよ。
彼にこうしてわたしの家に来てもらって、いつも一緒に描いているんです。
お互い、人といろんな話をしながら描いたほうが、インスピレーションが沸きますからね」
◆◆◆
「気に入った流派の画家に出会えてよかったね」
画家の元を辞したあと、ウキウキしているうさぎに、きりんがそう言った。
「本当に!
あの方が、チェンドラワシの部屋のコーディネートもすべてなさったんですってよ!
すごい奇遇だわ!」
「ふうん。アラムジワとどういう関係なんだろうね」
「‥そうねえ。きっとご近所のよしみで、部屋に飾る絵を選んであげたんじゃあないの?」
後から知ったことだが、それはとんでもない勘違いだった。
どうしてそんなふうに思ったのか、今考えると分からない。
「彼は画家である」という思い込みが強すぎたせいかもしれない。
この2日後になって、うさぎはようやく真実を知ることになる。
大きな絵を描いていたその人こそ、アラムジワのオーナーである
と。