プリルキサン美術館には様々な芸術体験講座がある。 ガムラン、縦笛、凧作り、影絵のあやつり人形、お面作り、お供えもの作り、 ビーズ手芸、バスケット編み、絵画、染物、バリダンスなどなど。 一時間ほどの講習もあれば、2日がかりのものもあり、習得期間はコースによって様々だ。
きりうさ家の4人はいずれもこうした体験教室が大好きで、 バリにきたときすでに、 きりんはガムランとバリ舞踊、うさぎは絵画、ネネは木彫り、チャアはバスケット編みと、 やりたいことがそれぞれ決まっていた。
ところが。
昨日プリルキサン美術館に講座の申し込みに行くと、
チャアが参加したいバスケット編みの講座だけはしばらく開かれないとのことだった。
なんでも講師の先生が2週間ほど休暇中なのだそうな。
しかたない、では似たところでお供え物づくり‥と思ったら、
これも講師不在のため休講だそうで、
これを聞いたチャアは、当てがはずれてふくれてしまった。
「それじゃあ、ネネと一緒に木彫りをやったら? ね?」と勧めるも、
「そんなのゼッタイできない!」とすねるチャア。
どうやら彼女は、"木彫り"と聞いて、
アラムジワの部屋の家具の精巧なレリーフを頭に思い描いてしまったらしい。
「最初からそんなすごい作品に挑戦したりはしないよ」ときりん。
「ママも手伝ってあげるから、ね?」
「パパも手伝うよ。だから大丈夫。みんなで一緒に彫ろう」
そんなこんなで、 みなバラバラに思い思いの講座を受けようと思っていた当初の計画は流れ、 一緒に木彫り講座を受けることになった。 「ゼッタイできない」と言い張るチャアの作品はきりんが手伝うことにし、 ネネ、チャア、うさぎの3人分の受講を申し込んで昨日は引き上げた。
◆◆◆
さて今日、講座の始まる時間に少し遅れて美術館に到着すると、 講師の先生が館の前の広いテラスにゴザを敷き、そこに道具をあれこれ並べて待っていた。
先生の名は、イ・マデ・マルジャヤ。 マデ先生は15センチ四方くらいの木板をネネとチャアに差し出した。 そこにはすでに鉛筆で図案の下書きがしてあった。 うさぎの要望で、先生はチャアの図案を少し易しく書き直すと、 それをどっしりとした切り株状の台にクギを使って固定し、 早くも彫り方の手本を示し始めた。
それは初めて見る彫り方だった。 右手に木槌を持ち、左手に彫刻刀を持つ。 そして彫刻刀の尻を木槌でトントン叩いて彫るのだ。
先生は様々なカーブの彫刻刀を何種類も並べ、 ちょうどいいカーブのものを図案の模様に沿わせては、木槌で叩き、 そうやって線を彫り込んだ脇から、こんどは斜めに彫刻刀をあてて、 余分な部分を削ぎ落としていった。
それは実にシステマチックなやり方だった。 図案のカーブによく合う刀を選び、それを木に垂直にあてがって木槌で叩けば、 誰にでもきれいなラインがひける。 それを斜めに削ぎ落とすのはちょっと技術を要するけれど、 それでも、両手で彫刻刀を握って彫るやり方よりは、大きな失敗をしずらい。 彫ってはならない部分を削いでしまうおそれが非常に少ない彫り方だからだ。
先生の手本を見ているうちに、ネネもチャアも、はやく自分でやってみたくなったらしい。 二人がうずうずしているのが分かる。 先生が彫るのをやめ、木槌を渡すと、二人とも「待ってました」とばかりに彫り始めた。
「チャアにはゼッタイできないー!」なんて泣き言を言っていた昨日の姿がウソのよう。 手順のはっきりしたやり方に我を忘れ、チャアもどんどん彫ってゆく。 木槌の立てる音も高らかに、彫る、彫る、彫る! 近隣の島から輸入されるという木彫用の上等な板は、固すぎず柔らかすぎず、 初心者にも彫りやすいようで、彫ること自体の楽しさ心地よさが、 そのリズミカルな槌音から伝わってきた。
一方うさぎは、というと、まだ下書きの段階だった。
「3人とも同じ図案ではつまらないから、わたしには少し違ったものをやらせてください」
と、初心者のクセにエラソーな注文をつけたのが失敗の元、
「ではこんなのはいかがでしょう?」と先生が提案してくれたのは
標準的な図案よりもかなり複雑なもので、
初心者の悲しさでそれが自分には難しすぎるということも分からなかったものだから、うさぎは
「はい! やります!」と言ってしまい、
図案を木板に書き入れるだけで午前中いっぱい費やしてしまったのだ。
やっと図案を書き上げたあとも、その複雑な図案通りに彫るのは大変だった。 図案が細かいため、彫刻刀を斜めに当てるときの位置が難しい。 木を彫ること自体は楽しいのだが、 板の上に問題が山積していて、 どこから取り掛かったらいいのか分からないのが辛いところだ。
ろくに彫らないうちに、昼食の時間になり、うさぎはとりあえず食事をとることにした。 食事している間、木を遊ばせておくのが勿体なくて、 うさぎはそこいらでヒマを持て余しているきりんに、 「パパもやってみる?」と持ちかけた。 思いがけずチャアが精力的に自分の作品に取り組んでいるものだから、 きりんはヒマそう。この余っている労働力を、うさぎの作品に使わない手はない。
すると、「手伝って欲しいなら、やってあげてもいいよ」ときりん。
「あら、別に手伝って欲しいというわけでは‥。
ただ、パパもやってみたいんじゃないかなー、と思って」とうさぎ。
「別にやってみたいというほどじゃあないけれど、まあいいや。
ママが休むなら代るよ」
そんなわけできりんが代わって彫り始めた。 持ち前の器用さで、なかなか上手。少なくともうさぎよりはかなり上手い。 もしかして、自分はこういうことって本来苦手だったかも、と、 今になってうさぎは思い出した。
きりんが熱中しているので、 食事を終えるとうさぎは街に出て用事を済ませてくることにした。 今日中に明日の料理教室の申し込みをしておかなくてはならない。
一時間半ほどして街から帰ってくると、作品はけっこう進んでいた。 隅っこのほうに一つ穴をあけただけで うさぎがきりんにバトンタッチしたときの状態からすると、格段の進歩といえよう。
とはいえ、全体からみれば、まだ3分の1もできていない。 そろそろ時刻は午後の2時。 日が落ちるまでにいったい仕上がるのだろうかという不安がよぎる。 きりんとバトンタッチしてうさぎはまた自分で彫り始めたが、 作業は遅々として進まなかった。 うさぎは焦り、あっちをちょっと彫ってはこっちをまたちょっと彫り、 中途半端にあっちこっちを彫った。
一方、ネネとチャアの作品はほとんどできかかっていた。 結局チャアも、先生に要所要所をすこし手伝ってもらっただけで、 あとは自分で完成までもっていった。 すっかり彫りあがると二人は紙やすりをかけ、木屑を叩き落としてニスを塗った。 ニスを塗ると、作品はますます作品らしくなった。
日の傾きがはっきりと分かってきた頃になると、うさぎは自分で彫るのがじれったくなり、 先生に応援を求めた。 先生も、この進捗状況では到底仕上がらないと見ておられたのだろう、 うさぎの要請を待ってましたとばかり、えらい手際のよさで彫り始めた。
それは本当に、驚くべき手際であった。 先生は決して急いでいるようには見えない。慌てているようにも見えない。 だけど、作品が仕上がっていく速さはものすごいスピードだった。 うさぎが1時間かかるところを、きりんは30分、先生は5分で彫る。 しかも実に仕上がりが美しい。 うさぎが中途半端に彫ったガタガタのカーブは瞬く間に滑らかに仕上げられ、 ただの木板は見る見るうちに、立派な作品へと進化を遂げた。 残した部分が彫った部分にくっきりと際立って、とてもきれい。 うさぎは先生の手際にほれぼれしつつ、 アラムジワの部屋で見た凝ったレリーフの推定工数を、 「一ヶ月」から「一週間」へと修正した。
そろそろ本当に日が落ちてきた頃、ようやくうさぎの作品 ――というよりうさぎもちょっとは係わった作品――も仕上がった。 うさぎはせめて仕上げくらいちゃんとやろうと思い、丁寧に紙やすりをかけた。 そこに先生がニスを塗り、作品は完成した。
ニスが乾くまでの間、先生は、同じ図案を作品に近づけ、こう言った。
「この図案はね、実は二つで一組なんです。
だから、ぜひまたバリに来て、これの片割れを彫ってくださいね」と。
うさぎは熱心に言った。
「ええ、ぜひ! 次は自分で最後まで彫りたいと思います」
でもあとでつらつら考えて、うさぎは思った。 おそらくこの図案は、もう一度挑戦したくらいではまだとても一人では彫れない。 だから次にバリに来たときは、ネネが彫った図案に挑戦しよう、と。 この図案を一人で仕上げるのは、そのまた次の機会だ。