さて、クアラルンプールに着いた。ここで飛行機を乗り換えるのが、今回の旅行の一つのヤマだ。 プーケットの時の乗り継ぎパニックのことを思い、乗換え手順と、 このセパン空港の地理に関しては、充分な予習をしてある。 旅程表のいいかげんな案内図だけでは不安なので、他の詳しい案内図も持ってきた。 手順は、旅程表を見るまでもなく、すべて頭に入っている。うさぎの頭にも、きりんの頭にも。 今回こそスムーズな乗り継ぎをしてみせるぞ!
うさぎたちを乗せて日本から飛んできた飛行機は、サテライトに到着した。 ゲートから廊下に出ると、廊下に沿ってジャングル模様の電車が音もなく走っていた。 メインビルディングへ行くエアロトレインだ。この電車が走っていくのを目で追うと、その先には広場が見えた。 そしてその広場の隅に乗車口があった。
広場は、サテライトの中心だった。この中央の広場からアームが四方に伸びていて、そこにゲートが並んでいる。 高いガラス張りの天井は、広場の中央ですり鉢状に落ち込んで丸い中庭を形作っていた。 空に向かって広くなるその中庭には熱帯植物が生い茂っている。 広くて明るい広場だ。周りには免税店も鈴なりで、楽しそう。でもうさぎたちは道草せずにエアロトレインに乗り込んだ。 お楽しみはこの乗り継ぎを無事終えてからだ。
エアロトレインはうさぎたちを乗せ、メインビルディング目指してまっしぐらに走りだした。
「サテライトとメインビルを電車で結ぶところが成田と同じだね」なんて言っていたうさぎは、そのスピードにびっくり!
何しろ速いのだ。しかも90度のカーブ。ぎゅい〜〜んと、えらい勢いで曲がっていく。
そして直線コースに入ったと思ったら、今度は地下に向かって下る!
きゃーっ、これはジェットコースターかっ?!
最後に坂を上って、メインビルに到着。その間約2分。 その距離もスピードも成田とは趣を異にしたエアロトレインの旅は終わった。
電車を降りると、広い広いロビーが目の前に広がっていた。鏡のようにぴかぴかな御影石張りの床がどこまでも続いている。
案内図からは想像できなかった広さだ。
さて。ここでまず左手前方にあるはずのトランスファーデスクに行かなくてはならないはずだが?
うさぎたちは何となくそっちの方向に歩いてみた。‥だがそれらしきものは見当たらない。表示板もない。
目の前に、手招きするかのように、金色に光るエスカレーターが、下へ下へと降りていく。
それに誘われるまま、階下に降りてゆく日本人カップルの姿‥
「ねえ、とりあえず、下に降りてみる?」美しいエスカレーターに誘われて、うさぎが言うと、きりんは言った。
「ちょっと待って。あっちじゃないかな」
きりんは〔ホリディ〕の名札を付けた家族連れの後について、左へ左へと歩いてゆく。
彼らの旅程表には「ランカウイ」の文字が見えた。
「確かに案内図ではあっちの方だったけどさー、でもないじゃん? だからとりあえず‥」
そう言いながらきりんの後について数十歩踏み出すと、はるか前方、
柱だか観葉植物だかの陰から忽然と小さなデスクが現れた。
それは、近寄ってみると決して小さくはなかったのだが、この広大な空間においては小さく見えたのだ。
「あれだ。あった! ‥やー、よかった、エスカレータを下りなくて」とうさぎは言った。
そうだよ、「階下に下りる前にトランスファーデスクへ行くこと」というのが、今回の重要ポイントの一つだったはず。
そう予習したじゃないか。
なのに、うさぎってば、〔トランスファーデスクが見えない〕って思ったとたんに、そんなことぜーんぶ忘れちゃったのだ。
ああよかった、きりんと一緒で。
うさぎは思わず駆け出し、トランスファーデスクへ。 5、6人の係員が並べる長さのカウンターにいたのは、わずか女性の係員一人だけ。 うさぎは首の高さほどもあるカウンターに、さっそく搭乗引換券を提出した。
しばらくすると、係員がもう一人、の〜んびりとデスクに帰ってきた。 その彼女が手にしているものを見てうさぎは目をむいた。
‥なんじゃ、あれは?!
透明のビニール袋に、イチゴジュースらしきものが入っている。
彼女は、その袋の口を手で持ち、差してあるストローでジュースをチューチュー飲んでいる!
そして、飲みかけのそれを、無造作に机の上の何かに立てかけて仕事をしはじめた。
ちょっとー、机の上にはパソコンやら書類やら、大事なものが沢山置いてあるだろうが。
ジュースをこぼしたらどうするの?! それに、雑談しながら仕事をしないで欲しい。
こっちは手続きを間違えたりはしないかと、気が気ではない。
うさぎたちの担当の係員は、書類をあれこれ調べ、どこかに電話をかけ、
機械から吐き出された搭乗券をうさぎたちにくれた。うさぎはそれを受け取り、そして念の為に聞いた。
「これは搭乗券ですよね? あとは、これを持って階下に降り、イミグレを通り抜けて、飛行機に乗る
――これでいいんですよね?」
「そう、そう」彼女は頷いて、うさぎのセリフを繰り返した。
やー、よかった。これで山場を越えたよ。
ここで搭乗券が受け取れない場合もあると、旅程表には書いてあったからドキドキしていたのだけれど。
もしここで搭乗券を受け取れなかった場合は、5階のチェックインカウンターで手続きをするようにと、
いとも気軽に案内図もつけず、ヘロッと書き添えられてあって、初めて降り立つ空港で、
案内図さえないカウンターまで行かねばならないなんて、と恐怖していたものだ。
ここで搭乗券を手にいれられて、本当によかった。あとはイミグレーション(入国審査)を通り抜けて飛行機に乗るだけだー。
うさぎたちは意気揚々とさっきの金色のエスカレーターで階下へ降りた。
むこうにイミグレーションカウンターがずらりと並んでいるのが見える。
あそこだ! また一つ関門をクリアし、気分はウキウキ、足取りも軽くなる。口も滑らかだ。
「綺麗な空港だねー、どこからどこまで新しくてゴージャスで! ものすごく広いしー」
御影石の床を滑りながらうさぎが言うと、きりんがウンチクを披露する。
「去年できたばかりの空港だからねー。ハード的な面でも最新式だけど、入国審査も一人あたり75秒で処理するんだってさ」
「ほおー、処理が速ければ、並ばなくて済むから快適だよねー」
カウンターの前にたどり着くと、うさぎたちは外国人用のカウンターの列の最後尾について待った。
その時、うさぎたちの近くをムスリムの家族が通った。
頭の先から足の爪先まで黒装束の女性を見て、ネネがぎょっとし、「なにあれ?!」と小声で囁いた。うさぎは説明した。
「この国はね、イスラム教という宗教を信じている人たちがいっぱいいる国なの。
その宗教を信じている人たちはね、女の人が髪や腕や足を人に見せることを、とっても恥ずかしいことだと思っているの。
ちょうど、ネネちゃんがパンツもはかないで、素っ裸でおっぱいやお尻を男の子に見られたら恥ずかしいと思うようにね」
「じゃあさ、おっぱいやお尻を見られても恥ずかしいと思わない国もある?」とネネ。
「あるよー。いつも裸で生活している所もあるよ」そういいながら、うさぎはウキウキした。
自分がイスラムの国に初めて来たのが嬉しい。でもそれ以上に、ネネのカルチャーショックが嬉しい。
世界の広さ、多様さ、突拍子のなさを見せてやれるのが嬉しいのだ。
入国審査のゲートには、どこもほんの数人しか並んでいなかった。
これはラッキー。うさぎたちは「外国人用」と書いてあるカウンターの列に並ぼうとした。
ところがそこに、ニコニコした係員が近づいてきて、誰も並んでいない、マレーシア人用のカウンターへと誘導してくれた。
うーん、親切ー。
うさぎは入国審査の係員にパスポートなどを提出し、「75秒の迅速な処理」とやらを拝見しようと、
カウンターに身を乗り出した。
ところが。そこに突然、割り込みが入った。
現地人らしき男性がついとカウンターに近づいてきて、入国審査官の女性としばらく談笑し、書類を置いていったのだ。
そして審査官はうさぎたちの処理を中断して、そちらの処理に専念してしまった。
うさぎは不安になった。うさぎたちの分を先にやっちゃって欲しいんですけど‥。でもそんなこと言えない。
だってここ、一応マレーシア人用のカウンターだし‥。
割り込み処理が終わると、係員はのんびりとうさぎたちの処理を再開した。迅速な処理を心掛けている風でもない。
日本の入国審査や出国手続きの処理の方がはるかにはるかに迅速である。一体これのどこが75秒?!
うさぎたちはイライラしながら手続きが終わるのを待った。
やっと処理が終わり、イミグレを通り抜けると、うさぎたちはほっと一息ついた。
「よし、イミグレを通り抜けたら、あとは右か左に折れてゲートまで行けばいいんだな」
ところが。左や右に折れる道がない。前にしか進めないのだ。 変だなと思いながらも前進すると、荷物がベルトコンベヤーにのっかってグルグル回っている光景が目に入った。 バゲージクレーム (手荷物引渡し所) だ。
これは絶対に変だ――!
この光景を見た瞬間、緊急事態が発生したことを、うさぎの脳は察知した。サーッと背中に寒けがはしった。 どうしてこうなったのかはわからない。わからないけれど、とにかく、うさぎたちはどこかで道を間違えたのだ。
うさぎはきびすを返すと、イミグレの方へと走った。 とにかく引き返さなくては。と、そこに、マレーシア航空のスチュワーデスの一群がこちらへ向かってくるのが見えた。 うさぎはそのうちの一人を捕まえて声をかけた。そして、その顔に見覚えがあるような気がして、小さく「あっ」と叫んだ。 そしてその次の瞬間彼女の胸の名札を読み取り、人違いだと気づいた。 さっきの飛行機にいたスー・アンさんだと思ったのが、違ったのだ。
安堵と失望。
ほんの一瞬のうちにうさぎの顔に交錯した表情を巧みに読み取って、
この中華系のスチュワーデス (やはりスーさんとおっしゃる) は、なだめるように言った。
「いいの、いいの。いいから、話してみて。どうしたの?」そこでうさぎは言った。
「ペナン行きの飛行機に乗らなくちゃならないんです。どっちへ行けばいいのか、教えてください!」
彼女は、バゲージクレイムの方に走りながら、うさぎに尋ねた。
「ペナンへの出発時刻はいつ?! 時間は迫っているの?」
走っているのと、パニックしているのとでうさぎが返答できないでいると、彼女は「搭乗券を見せて」と言った。
搭乗券を見せると、彼女は空港の係員にマレー語で何か話しかけ、それからうさぎに言った。
「ここで入国してはいけなかったのよ。しょうがないから、そこの出口から一旦出て、リフトで5階へ上がって、
国内線の入口から入り直して」
その英語の指示は、不思議なくらいすんなりとうさぎの頭の中に入ってきた。
それは、トランスファーデスクで搭乗券を受け取れなかった場合を考えて、
この空港のおおよその地理を頭に入れておいたお陰かもしれない。土壇場になって、予習の成果が現れたのだった。
うさぎは彼女に礼を言うと、きりんと子供たちを引き連れて出場した。
そして、出口の前に何かのサービスカウンターを見つけると、イライラしながら尋ねた。
「リフト、リフト、5階へのリフトはどこっ?!」若い係員の男性は、うさぎの狼狽ぶりにニヤニヤしながら、
すぐ脇にある瀟洒なエレベータを指さした。すっかり不安に取り付かれたうさぎが、
「5階よ、5階。確かに5階にいくわね?」と念を押すと、彼は呆れ顔で頷いた。
エレベータに首尾よく乗ると、うさぎはやっと一息ついた。 けれど5階でエレベータの扉が開いたとたん、また呆然となった。 このフロアのどこに国内線の入口があるのか、自分は知らないということに気付いてしまったからだ。 ここはチェックインカウンターや免税店があちこちにあって、雑然としている。視界を遮るものが多いので見渡せない。 こんなフロアを、一体どっちに向かって走ればいいの?!
「こっちだ!」うさぎが呆然としていると、きりんが突然イニシアチブを取りはじめた。
確固たる足取りで、左の方へと歩いていく。
「ちょっと、どうしてこっちだって分かるのよー?!」と、泣きそうな声でうさぎ。
「いや、たしか、こっちの方だったよ」ときりん。
「だったよ?! 初めて来たのに、どーしてそんなことが言えるのよー?!」
家でさんざ5階の見取り図を見て予習したこともすっかり忘れてうさぎが怒鳴る――と、
目の前に、やけにこぢんまりとした入口が見えてきた。国際線の入口だ。うさぎはその入口に駆け寄り、係員に尋ねた。
「国内線の入口はどこっ?!」
「あっち。あの免税店の建物のウラ」と答える係員に尚も食い下がり、尋ねる。
「どうやってあの建物の裏に回り込むの? こっちから行かれる?」係員は黙って頷きながら、そちらの方向を指さした。
うさぎは、きりんと子供たちに手招きすると、指示された建物の壁に沿って走った。 この建物は空港の端っこにあり、〔あわや、いきどまりか?!〕と危惧する場面もあったが、 空港の広さにそぐわない細い通路があり、その通路を抜けると、やはりこぢんまりとした国内線の入口があった。 うさぎはハアハアいいながら、背中のリュックをX線審査のベルトコンベヤーに載せた。 まもなく、後ろから子供たちときりんが走ってきて、次々とボディチェックを抜けた。 そしてそのすぐ前にある質素なエスカレーターで、出発ロビーである3階に降りた。 このエスカレーターを降りながら、乱れた呼吸を整えつつ、うさぎは思った。 何だって、出発ロビーへの入口がこんなにマイナーな場所にあるんだろう? それに、国際線のロビーは広くて明るくて、高級ホテルを思わせるゴージャスさだったのに、 どうして国内線の入り口であるここはこんなに狭くて暗くて質素なんだろう?、と。
ようやく国内線の出発ロビーに降り立ち、時計を見ると、まだ出発まで30分ほどあった。 焦りまくってここまできたが、結果的にはさほどギリギリではなく間に合ったというわけだ。 でも早く飛行機に乗ってしまいたい。飛行機に乗ってしまうまではなんだか安心できない。 搭乗はすでに始まっていたので、うさぎたちはいそいそとペナン行きの小さな飛行機に乗り込んだ。
飛行機の中。そこはすっかりマレーシアだった。 クアラルンプールまでのジャンボの中は、クルーこそマレーシア人だったが、乗客のほとんどが日本人だった。 だから、まだ完全には日本を出た気がしなかった。けれど、ここはさすがに異国情緒たっぷり。 サリーをまとったインド系の女性やら、ダークブラウンの肌色の男性で賑わい、異国の言葉が飛び交っている。 そのざわめきには、まるで市場にでもいるような活気と、どこか砕けた雰囲気があった。
ようやくシートに落ちつくと、大きなため息が出た。
横3列の座席にきりんとうさぎが並んで座り、ネネとチャアはインド人女性ともにその前の席に座った。
うさぎはしみじみと言った。
「いやー、まいった。どうしてこうなっちゃったんだろう? 入国しちゃいけなかったのかなあ?
でも、イミグレを通るって、旅程表に書いてなかったっけ?」
「書いてあった、あった。トランスファーデスクでもそう言ってたじゃないか。ホントおっかしいよねぇ。
一体どこで間違えたんだろうなあ??」きりんは座席のポケットに入っている雑誌を取り出し、空港の見取り図に見入った。
しばらくして、きりんが謎を解いた。
「分かった。入国審査のカウンターって、2箇所あったんだよ。乗り継ぎ用と、そのまま出場するやつと。
で、エアロトレインの脇にあるエスカレーターを降りれば、そのまま乗り継ぎ用の入国審査カウンターの前に出たんだけど、
逆向きのエスカレーターを降りて、そのまま前に見えた入国審査カウンターの方に行っちゃったからマズかったんだ。
後ろを振り返って見なくちゃいけなかったんだ」
ほー、そういうことだったのかー。あれだけ危機感を募らせ予習をしていったワリには、注意力が足りなかったのだ。
ああもう、なさけなー‥。
「でもさ、乗り継ぎの手順といい案内図といい、あんな書き方じゃあ、分かんないと思わない?
あれ、乗り継ぎに失敗して乗り遅れた人、ゼッタイいるって」だんだん自己嫌悪が怒りに変わってきて、うさぎは言った。