昨晩痛みはじめたお腹は夜中も時々痛み、うさぎは不安な一夜を過ごした。 痛みの程度は大したことはないが、グアムでのきりんの二の舞はイヤである。 どうか下痢になりませんように――と、うさぎは祈った。
だが、夜が明けると、意外な展開がうさぎを待っていた。ネネが腹痛を起こしたのである。
7時前ごろ、うさぎはネネのうめき声で目が覚めた。
ネネは隣の部屋のベッドでお腹を抱えて泣いており、額に手をあててみると微熱があった。
あーあ。うさぎはため息をついた。これじゃあ、うさぎが下痢にならなくても、残る二日間はおじゃんだ。
一体何が悪かったんだろう‥?
そうこうしているうちにも、ネネの熱はぐんぐん上がってきた。額が触るたびに熱くなる。 うさぎは頭に「日本脳炎」の4文字が浮かび、不安にかられた。それできりんと相談して、医者に見せることにした。 ホテルのロビーの脇にはクリニックがあるはずだ。
うさぎは受話器を取り上げ、オペレータにクリニックにつないでくれと頼んだ。
するとオペレータはドクターの方から折り返し電話させると言い、間もなく英語の堪能なドクターから電話が掛かってきた。
うさぎがネネの病状を話すと、彼は尋ねた。
「クリニックに来ますか、それとも往診しましょうか」
「こちらから伺います。クリニックはロビーの脇でしたよね」とうさぎが言うと、彼は言った。
「いやいや、わたしのクリニックはホテルの外ですよ。タンジュンブンガなんですが」
「えっ!!」うさぎはびっくりして思わず大きな声を出してしまった。
相手はホテルのドクターだとばかり思っていたのに、‥一体この人は誰?!
うさぎが戸惑っているのを見通すかのように、彼は言った。
「今日は日曜ですから、ホテルのクリニックはお休みなんでしょう。それでオペレータがわたしに繋いだんですね、きっと。
‥それで、どうしましょうか?」
「往診をお願いします」とうさぎは一も二もなく言った。
病気の子をタクシーに乗せてタンジュンブンガまで行くなんて、とんでもない話である。
「わかりました。すぐに支度して伺います」と彼は答えた。
8時過ぎにドクターは現れた。肌の色が黒い長身の男性である。顔立ちからしてインド系のようだ。
部屋に入ると、彼は早速ネネの体温を計った。それはヘーンな体温計だった。絆創膏のような大きさの紙ぺらである。
彼はそれをネネの額にあてがうと、一秒後にはそれをうさぎたちに見せてこう言った。
「38度ありますね」
きりんとうさぎはびっくりした。耳に入れて一秒で計測するっていうのは最近聞くけど、これは一体何?!
紙に、温度で色の変わる素材 (カニの甲羅?) が張りつけてあるだけにみえるんですけど。
昔、学研の付録とかに付いてきたようなヤツ。‥でも、大雑把にせよ、それで体温が計れるなら便利だ。
次に彼は聴診器をネネのお腹にあてた。そして言った。
「お腹がゴロゴロしていますね。それで熱が出たんでしょう。"ハナミズ"も"セキ"もないから、風邪じゃありません。
"ゲリ"はありませんか?」
彼は日本語を交えてゆっくりと、簡単な単語ばかりで話してくれた。
うさぎはネネに尋ね、下痢はなかったようだ、とドクターに伝えた。
「昨夜は何を食べましたか?」とドクター。
「マクドナルドのチキン」とうさぎは答えた。
「いつもと変わった食事ではないのに、どうして腹痛なんか起こしたんでしょう?」
「多分、マレーシアに来て、色々な種類のものを一日の間にあれこれ食べたので、お腹がびっくりしてしまったんでしょう。
‥でも大丈夫。寝ていればすぐに直ります。念の為、薬を置いていきますが、"コーセーブッシツ"ではありません。
熱の薬は、微熱になったら与えないで下さい。熱があるから体は病気と戦えるのです。
お腹の薬も同じ。症状がなければ与えないで」ジェスチャーたっぷりのインフォームドコンセントを彼は示した。
名医である。日本でも、なかなかこんな医者にお目にかかれるものではない。うさぎは彼をこのまま帰すのが惜しくなった。
こうしてドクターにお目にかかったのも何かの縁。これも良き旅の思い出の一つだ。
ぜひビデオやカメラに納まっていただかなくちゃあ!!
「今の説明を忘れちゃうといけないから、もう一度、ビデオの前で説明して下さい」とうさぎは言った。
なのにきりんが口をはさんだ。
「いいよ、いいよ、大丈夫だよ。僕が覚えているから」
うさぎは舌打ちした。何が「いいよ、いいよ」だよ。「説明の記録」は口実なんだってば。
ネネが熱を出した今、旅の思い出が作れそうにないんだから、せめてこういう場面をビデオに撮らなくてどうするよ?!
現地の医者をビデオで撮影したくて呼んだのか、と思われても困るからこう言っているのに。きりんの鈍感!!
うさぎはビデオ撮影を諦め、それでも、せめて写真だけでもと思い、思い切ってドクターにお願いした。
「旅の思い出に、写真を一枚撮らせて下さい」
するとドクターは、快くオーケーしてくれた。
なんと、カバンにしまいこんだ聴診器をまた取り出して耳に当て、ネネを診察するポーズを率先して取ってくれた。
うー、感激!! なーんて気のきいたお医者様なんだ!!
こうして彼は帰っていった。傷害保険の証書と請求用紙を持って。 往診の支払いは、彼が日本の保険会社に直接請求してくれるらしい。まったく、最後までソツのないお医者さまである。 うさぎはほれぼれしながら、彼の後姿を見送った。