子どもたちがロッククライミングを終えると、時計の針は2時半を回っていた。
K7に3時からのバイクツアーについて尋ねると、
それは自転車でセントーサ島のあちこちをまわるもので、自分が先導するのだと言う。
うさぎはこのアクティビティにも参加することを即座に決め、
「部屋で服に着替えてからまた来るから」と告げた。
爽やかなこのインド人の青年が気に入っていたのだ。
子どもたちは、そんなことより、プールで遊んでいたほうがいいというので、 「背が立たないほど深いところにはいかないこと」と約束させて、 きりんとうさぎの二人だけで参加することにした。
準備に手間取り、約束の3時に少し遅れて行くと、 集合場所のシースポーツセンターにK7の姿はなかった。 遅刻したせいでもうバイクツアーに行ってしまったのだろうかと不安になりつつも、 まあとにかく受付を済まそうと、小屋の中に向かって声を掛けると、 中華系の無表情なスタッフが現れて、用紙に必要事項を記入するように言った。 部屋番号やサインをその用紙に書き込みながら、まずは料金の確認。 料金表は、小屋の上の方に書いてあったけれど、念のためスタッフに尋ねてみた。
ところが。
「一人10ドル」と、
その中華系のスタッフはこっちの顔を見もせず、ぶっきらぼうに言った。
「‥10ドル? 一人で? あそこには一人6ドルと書いてあるような気がするんだけど」
と言うと、
そのスタッフは、うるさそうにまた繰り返した。「一人10ドル」と。
はあ、10ドル、さいざんすか。
きりんと日本語で二言三言ブツブツ言ったものの、二人ともそれ以上追求するのをやめ、
用紙に名前と部屋番号とサインを書き入れた。
そこへ、バイクツアーに参加したいという別のお客が現れた。
なんと、子ども二人。褐色の肌をした11~12歳の女の子と、8歳くらいの男の子。
姉弟らしい。
中華系のスタッフは、誰かの呼び声に応じて小屋の中に消え、 その代わりに、インド系の強面の大丈夫が現れ、 バイクツアーの先導をするのは自分だと言った。
おやおや、K7じゃないの?
うさぎはガッカリしたけれど、
「いやいや、今さっきの中華系スタッフに比べたら‥」と思いなおした。
"モーガン"という呼び名のこの大男は、子どもたちが参加の意志を示すと、
「両親はどこだい?」と尋ねた。
「さあ? 知らない。どっかその辺にいるんじゃない?」
とハリーポッターTシャツを着た姉の方が答える。
「‥つまり、おまえたちだけで参加しようってことか?」とモーガン。
「オイ、マジかよ」などと口の中でブツブツ言っている。
「まあね」としれっとした顔でお姉ちゃん。
呆れ顔をしつつも、「おまえら、シンガポーリアンか?」と尋ねるモーガン。
「ううん。ジャカルタから来た」とお姉ちゃん。
ジャカルタ? ジャカルタ??
一体どこそれ?! インド?
――しばらく考えて、うさぎはようやく思い出した。
なんだ、インドネシアじゃないか。シンガポールのすぐ隣だ。
しかし、それにしたって、なんて積極的な子どもたちなんだろう。
英語が堪能とはいえ、よその国からやってきて、
自分たちだけでツアーに参加するとは。
この社会性はどうだ。
ネネもこのくらい積極的だったらねえ‥。
せめて、ネネとチャアも参加させたかったわね、こういう子たちと一緒に。
「まあいいや。ここに、お父さんとお母さんの名前と、部屋番号を書いて。
で、最後にサインだ」とモーガンが言った。
「おっと、両親の名ってのは、苗字の方を書くんだぞ」
「オッケー」と姉は言いながら、"○○ & △△"と、どう見てもファーストネーム、
それも愛称としか思えない名を書き入れた。
モーガンはそれをチラリと見たが、諦めたような表情で用紙を受け取った。
さて、きりんとうさぎ、それに姉と弟、それにモーガンの一行は、
モーガンを先頭に、貸し自転車にまたがり、バイクツアーへと出発した。
プールエリアを抜けると、そこはホテルの駐車場で、砂利が敷き詰めてあった。
とても自転車に向く道ではない。
上へ下へガッタンガッタン揺れながら、無理やり自転車を前に押し勧めるが、
ヘタをすれば自転車ごと転びそう。それでもモーガンときりんを必死に追いかけた。
とにかく転ばないようにと気を遣いながらようやく駐車場を抜けてみると、 一人足りなかった。姉弟の弟の方だ。無理もない。チャアより幼いんだもの。 うしろを振り返ったモーガンがそれに気づき、停車した。
しばらくすると、懸命な顔つきで、弟君がやってきた。
「しまった、可哀相なことをした」と、うさぎは思った。
駐車場では自分のことに必死で、この子のことを気にかける余裕がなかったけれど、
これからはうさぎが最後を走らなきゃ。
そんなわけで、公道に出てからは、うさぎがしんがりを務めることにした。 公道はアスファルトで走りやすかった。 でも、小さな子どもには、モーガンのペースは速すぎる。 弟君は、ペダルをこぐのに必死になるあまり、ときどき派手に転んだ。 うさぎと、それから時々弟を気にして後ろを振り返るお姉ちゃんはその都度、 「ストップ! 待って! 彼が転んだ!」と叫び、 豆粒のように遠くに見えるモーガンを呼び止めるのだった。
右手に白砂のビーチが広がる海沿いの道は、
これといって珍しいものに出会えるわけでもなかったが、景色が良いのと、
気温がちょうどよかったのとで、気分爽快だった。
途中から、これはすこしペースを落とさにゃならんな、と気づいたモーガンが、
子どもたちと並走しながら、
「これはジャングルトレイルの入り口だ」とか、
「ここではピンクイルカに会えるぞ」などと、簡単な観光案内をしてくれた。
けれどそれよりうさぎの興味をひいたのは、道の端で見かける野生のサルやキジたちの方で、
ときおり自転車を止めては写真を撮ったりした。
サルたちは人間に慣れていて、観光客からエサをもらっては、誰かに横取りされぬよう、
街灯のてっぺんに登って食べていた。
頭をぶつけそうなくらいの高さに、モノレールの線路が走っていたり、
可愛らしいおとぎの機関車が観光客を乗せて走っていったり。
ビーチでごちそうを広げて誕生会をやっている子たちもいる。
大きなケーキにのっかったロウソクの炎を吹き消したところで、
「ハッピーバスデー!」と、皆で声をかけた。
なんだかここは不思議な雰囲気だ。
ただの自然公園にしては人工的すぎるし、さりとて、遊園地にしては散漫すぎる。
その中途半端な感じがかえって新鮮だったり。
しばらくビーチに沿って行くと、道は行き止まりとなった。 どこか目的地に向かって走っているものだとばかり思っていたうさぎは、 大きな木を中心に円を描いて道を引き返すモーガンの後を追いながら、 ちょっとがっかりした。 そろそろお尻が痛くなってきたので、無駄足をしたような気分になったのだ。
どこまで引き返すのかと思ったら、ビーチ沿いの道をどんどん遡り、 ホテルのすぐ側まで引き返してしまった。 おや、これでもうバイクツアーは終わり?と思ったら、モーガンは三叉路で右折し、 海を背に、内陸に向かい始めた。そして、狭い山道へと入っていった。
「ここからはアップダウンが激しいからな。がんばれよ、子どもたち」 と声をかけるモーガン。 上り坂の急なところでは自転車を降りて、転がした。 サイクリングなのになんでこんな山道‥と思うが、 自転車からしばし降りられるのはありがたい。 なぜって、お尻が痛かったからだ。 この程度のサイクリングでどうしてこんなにお尻が痛くなるんだろう?と不思議に思い、 サドルの下を覗いてみたら、なんと、サスペンションがついてない! これじゃあお尻が痛くなるはずだ。 道のデコボコをもろにお尻で受けとめなくちゃならないんだもの。 どうしてこの国の自転車には、サドルの下にサスペンションがついていないんだろう? 前輪の上には、無駄とも思えるサスペンションがとりつけてあるのに。
坂道を登ったり降りたりしていると、弟君はますますよく転ぶようになった。
転んでもすぐに起き上がり、決して泣いたり弱音を吐いたりしないところがエライけれど、
ようやく山道を抜けた頃、お姉ちゃんの方が言い出した。
「ねえ、まだ走るの? なんだかあたし、疲れちゃった。それに喉が乾いた」
「ボクも」と弟が言い添える。
「えーっ?!」これだから子どもは、といった表情のモーガン。
「水ならあるわよ。飲む?」
うさぎが部屋の冷蔵庫から持ってきたエビアンのペットボトルを取り出したが、
お姉ちゃんは気の乗らない様子。
ジュースでなくてはいやだというのか、それとも
見ず知らずの東洋人から口に入れるものをもらってはいけないと
親にしつけられているのか。
「もう少し行ったら、売店でジュースが買えるから、それまでガマンしろよ。
小銭持ってんだろ?」とモーガン。
子どもたちは体のどこにも小銭を忍ばせているようには見えなかったが、
彼は子どもたちの返事を待たず、そう言うと、自転車にまたがり、また道を走り始めた。
山道をうねうね来たので、一体どこを走っているのか分からないが、 左手に海が広がっている。その向こうには、本土が見える。 無数のクレーンが首をもたげ、およそリゾートとはかけ離れた光景である。 海峡には、あまり美しいとはいえない船々が航行している。
右手に豊かに茂る緑、頭上のレールを走ってくるモノレールや、 海のはるか上の方を通って本土とセントーサ島を結ぶロープウェイ、 そして左手の、あまり美しいとはいえない海ごしに見える、無数のクレーンの鎌首‥。 リゾートなんだか何なんだかよく分からない景色に囲まれつつ、 しばらく自転車を走らせていると、 突然、これまた違った雰囲気をもつものが見えてきた。 テーマパーク様の、白亜のフェリーターミナルである。
フェリーターミナルで自転車を降りると、モーガンは自転車を降り、
「さあ、そこら辺で飲み物を探してきていいぞ」と子どもたちに言った。
すると、「え~、あなたが買ってきてよ。あたしたち、ここで待ってるからさ」
と姉貴のほう。
「なんでオレが‥」という顔になりつつ、
それでもモーガンはジュースを探しにどこかへ消えた。
けれど、しばらくして帰ってきたモーガンは手ぶらだった。
「見つからなかったわ。しょうがない、一旦ホテルに帰ろう」
そういうモーガンのセリフを聞いて、うさぎは密かに思った。
こんなターミナルで、ジュース一つ手に入らないわけがない。
おそらくモーガンは、子どもたちにジュース代を踏み倒されるのがいやだったのだろう、と。
そんなわけで、一行は今来た道を引き返し、山道を通ってホテルに帰った。 ホテルに帰り着くと、「"一旦"ホテルに戻ろう」と確かに言ったはずのモーガンは、 自転車をしまい始め、結局ここでバイクツアーはおしまいになった。 うさぎもすっかりお尻が痛くなっていたので、そう残念とは思わなかった。 子どもたちに祟られるのはいつものことだし――。
バイクツアーにでかける時にはコワモテに見えたモーガンも、
今となっては、子どもに振り回される人のいいおじさんに見え、
親近感を持ったうさぎは、彼に少しばかりのチップを差し出し、
胸の名札をよく見せてもらった。
彼は大喜びでチップを受け取り、
「今日は悪かったな。子どもたちがあすこでへばらなきゃ、
もっとあちこち案内できたんだけどな。‥オレ、モーガンってんだ。
もしよかったら、アンケートにオレの名前を書いてくれよな」と言った。
チップの額より、お客に気に入ってもらえたことの方を喜んでいるようだった。
そのあと、K7にも出会ったので、モーガンとの吊り合いもあって、 彼にもチップを差し出してみたが、彼は軽く首を振って受け取らなかった。 う~ん、どこまでも爽やかなヤツ。
インドネシア人の姉弟については、まだ逸話がある。
この日、夜の10時過ぎにホテルのエレベータに乗ったら、またこの二人に出会ったのだ。
またしても親の姿はどこにもなく、二人だけでうろついていた。
こんな夜遅くに子どもたちだけで、どこで何していたのやら。
売店さえ閉まっているような時間に。この子たちの親って一体‥。