1月に計画していたバンコク行きを、先日断念しました。 とっても楽しみにしていたので残念ですが、まあ仕方がない。 そのうちまたチャンスはあるさ、と気持ちを切り替えることにしました。
しかし問題はバリ旅行記。 バンコク行きの計画がダメになりそうだと思い始めたと同時に バリ旅行記の筆もぱったり止まってしまったあたり、困ったものです。 この現金さ、この怠惰さには、自分でも呆れてしまいます。
バンコク行きのチャンスは失っても、バリ旅行記を書くきっかけはまだ生きている。 完全に断念したのを機会に、このきっかけを与えてくださった まおさんに感謝しつつ、 やおらまた書き始めることにしました。‥頑張ります。
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【 バリ旅行記6 ウブドの風景 】
アラムジワから北上すること約1キロ、 車でウブド中央付近にあるプリルキサン美術館へと向かった。
運転手は、ハンドルを握りながら周囲に目を配り、窓の外に知り合いを見つけては、
声をかけたり、手で合図したりした。
ウブドが彼の庭であることを誇るかのように。
「お友だち?」と尋ねると、運転手は「そうだ」と頷いた。
「ウブドには友だちばかりさ」と。
うさぎは、そんな彼の客であることを誇らしかった。
彼の車に乗っていることで、
ウブドという村に受け入れられる資格を手にしたような気がしたのだ。
車はプリルキサン美術館に到着した。運転手は、道の端に車を止め、 ここがそうだ、と美術館の入り口を示した。 けれどその入り口は間口がきわめて狭く、 ただ小路が深い渓谷へと降りているのみ。 本当にこの先に本当に名だたる美術館があるのかしら、といぶかった。 しかし、長い階段を降りていき、橋を渡って 小さな受付で入場券を買ってまた小路を登る。 すると、睡蓮の葉で埋め尽くされた池のあるひなびた雰囲気の庭園に出た。 睡蓮の真ん中には、女性の姿をした石像が、耳にハイビスカスの花を挿して立っている。
人気のない3つの館を巡ってバリの伝統的な木彫りや絵画を見たあと、 庭をぶらぶらしていると、東屋にガムランの楽器が置いてあるのを見つけた。 置いてある金槌で金属製の腱を叩くと、キーンとした雅やかな音が響き渡った。 次々に腱を叩いていくと、音と音が重なり合い、わーんと共鳴してものすごい騒ぎになった。
その音を聞きつけ、チケット拝見の役目を担った警備員がやってきて、 短い曲を教えてくれた。最初に、叩く腱の順番、次に、その弾き方を。 腱を一つ叩いたら、次の音を右手で叩くと同時に、 前の腱を左手でつまんで押さえて、音を消す。 こうすると、複数の音が交じって不協和音を奏でることもない。
彼は手馴れた様子で 右手で腱を叩いては、それを追いかけるように左手で前の腱を押さえてまわったが、 その真似をするのは難しかった。 音が上がっていくばかりのときにはいいのだ。 ドミファソ、と右手で叩き、それを左手で追いかけていく分には。 けれど、ソシファソと、叩く腱が上がったり下がったりすると、もう分からなくなる。 右手と左手が交差することになり、混乱してわけがわからなくなるのだ。 自分の右手がどっちで、左手がどっちなんだかすら‥。
うさぎよりはいくぶん粘り強い子供たちが短い曲をなんとか弾けるようになったところで、 警備員さんに礼をいい、美術館から引き上げた。 道に面した入り口まで引き返すのに、また階段を下って、橋を渡った。 橋のはるか下の方に、ちょろちょろとした川が流れていた。
この不必要に深い渓谷は一体何なのだろう? でも少なくとも、 この由緒ある美術館を道の喧騒から引き離すことに一役買っていることだけは確かだ。
ウブドのメインストリート、ラヤ・ウブド通りには店がずらりと建ち並んでいた。 ウブドを"村"と呼ぶにはちょっと賑やかすぎるかんじだ。 だけどその道幅はそう広くもなく、埃っぽい。
車の巻き上げる埃を避けながら道の端を歩いていると、向こうから揃いの制服を着た 子供の集団が歩いてきた。中学生くらいだろうか。 女の子はみな黒い髪をきっちりした2本のお下げに結い、先をピンクのリボンで留めている。 どの子もつやつやとした褐色の頬に控え目な笑みを浮かべ、 びっくりするほど大きな瞳をしていた。
ラヤ・ウブドの埃っぽさを避け、車の少ないカジュン通りに入った。 カジュン通りは、ラヤ・ウブド通りから北へと伸びる石畳の小道で、 左右には民宿(ロスメン)が立ち並んでいる。 通りはちょうど痛んだ石畳の張替え中らしく、あちこちが掘り返されていた。
一つが60センチ四方ほどの大きさの石畳にはそれぞれ、 観光客が掘り込んだメッセージが刻まれている。 自分の名前と、バリを訪れた年号を彫りこんだものが多く、 手形やイラストの添えられたものもある。名前から察するに、ドイツ人が多い。 葺き替えられたばかりのものの中にまだ一月と経たぬ若い日付のものもあるかと思えば、 古いものには1984年という年号もある。 その上を、犬やらニワトリやらヒヨコやらが、気ままに歩き、 ときおりバイクがダダダダ、とやってくる。
通りに立ち、四方にカメラを向けながら、うさぎは思わず言った。
「バリって、どこからどこまでバリなのね」と。
そう、本当に。どっちを向いても、そこは"バリ"だった。 西洋とは明らかに異なるセンスで飾り立てられた家々の門、 戸口の前の道の端に備えられたお供え物。 石には異形の顔が掘り込まれ、線香の香りがほのかに漂う。 一つ一つの家はそれぞれ違った佇まいであるにもかかわらず、 全体として見ると非常な統一感に包まれている。 しかもそれは、今まで見たこともない独特さであり、 スポット的に、ここがバリらしいとか、あそこがどうとか、 そんなものではなかった。 とにかく、右を向いても左を向いても、どっちにカメラを向けても、 そこはいかにもバリだった。
そしてまた、それはカジュン通りに限ったことではなかった。 アラムジワのあるニュークニンの村も、のちに滞在したアラムプリの周辺も、 オダランを見るために訪れたウブド北部の村も、訪れた村はどこもみなそんな風であった。 そこかしこに石像があるのは当たり前。 玄関先にチャナン(お供え物)が置かれるのも当たり前、 どこからどこまでバリらしいのが、バリの田舎の当たり前だったのだ。